1.迷子の練習一覧

10. 激安インド旅行!

2万円でインドに行けた理由

「激安でインドに行けるんだけど、一緒にどう?」
妹のR子に誘われたとき、私はきっぱりと断った。
「夏のインドには行かない!」
「でもめっちゃ安いねんで。3万8千円で観光ガイドつき」
冗談じゃない。酷暑のインド、雨期のインドだ。またお腹をこわして死んでしまう。

「じゃあ2万でいいから!」
当時、R子は大手旅行会社で働いていた。それは社員旅行代わりのツアーだから特別に安いのだそうだ。当初R子は夫と参加するはずだったが、土壇場になって夫が仕事で行けなくなった。7月のインドについて来てくれそうな人はなかなか見つからず私に白羽の矢を立てたというわけ。
「名義変更料の2万円だけ払ってくれたらいいから!」
2万円。国内旅行より安いじゃないか。
ということで私は再びR子と旅立ち、7月のインドに降り立った。

チープ感あふれるツアー

それは安かろう悪かろうの見本のようなツアー、もはや潔いくらいチープなツアーだった。

何が酷いって、まず最初の宿がほぼラブホテルだ。ファッションホテルでもなければレジャーホテルでもない。星ひとつない、うらぶれたラブホテル。車道に面した玄関には青紫のネオンがチカチカしてて、出入り口のドアを開けたら浮浪者がごろごろ寝ている。モーニングコールが30分も遅れるとかシャワーが水しかでないとか普通にあった。

ホテルの朝食は「食糧配給」。ビュッフェとかセルフサービスなんていいもんじゃない。客は皿を持ってぞろぞろと一列に並ばされ、貧相な食事を注いでもらう。薄暗い照明といい、ホテルマンの陰気な表情といい、刑務所か捕虜収容所といった趣きだ。

このツアーでは自由時間に出会った睡眠薬強盗までチープだった。ツアーメンバーと連れ立って女4人、夕食を求めてデリーの街に繰り出したときのことだ。屋台に入るなり、うさんくさいおっさんが店主とヒソヒソ話をしていたかと思うと、
「いらっしゃい、綺麗なレディたち! 君たちは美人だから特別にチャイをごちそうしてあげよう」
と舌なめずりをせんばかりの笑顔で寄ってきた。
「この紅茶、絶対に睡眠薬が入ってるよね」
「間違いないね」
初インドのR子にまで見抜かれるくらい安っぽい手口だった。どうせならもっとうまい手を考えればいいのにと、文句をたらたらとこぼしながら店を出た。

激安とはいえツアーだから、観光だけは一応は押さえていた。ガイドに連れられてタージマハルやピンクパレスなどを見た…気がする。あまり覚えていない。

たしかアンベール城ではゾウに乗った。これだけははっきり覚えているとR子は言う。
「2人ならんで乗ったよね。私がゾウの頭側、お姉ちゃんがゾウのお尻側に座って。そしたらゾウが途中でウンコして、しっぽでパタパタ扇ぐもんだからウンコが飛んできたの! ウンコつけられた!って大騒ぎしてたやん」
ウソだ。そんなはずはない。ゾウにウンコをつけられたのはR子のはずだ。
「いや、お姉ちゃんだって!」
「R子だって!」
「お姉ちゃんがウンコつけられたの!」
私たちにはウンコ以外の記憶はないのだろうか?
……ないのである。インドっていつも強烈なことが起こりまくるから、観光なんてだいたい霞んでしまうのだ。

スコール

移動は普通の観光バスだった。普通、に見えた。ところが移動中にスコールに遭った。いかにも南国の、滝のような雨!

ジャイプールの町は一瞬で洪水になった。屋台を大慌てで片づけるおじさん、ひざまで水につかりながらバクシーシをねだる物乞いの少年、半ば沈没しながらもどうにかして走りつづけるオートリクシャー。大勢の人たちが雨宿りをしている様子をバスの窓から眺めていた。

と、
「雨だ! 雨ふってきた!」
乗客の一人が悲鳴をあげた。今更なにをいってるんだと思って振り向いたら、バスの天井が雨漏りしているではないか。激安ツアーはバスまで安いのだ。バスの中で傘をさした経験は、アフリカのローカルバスとこのインドの激安ツアーだけだ。

ツアーを離脱する

チープすぎるツアーに見切りをつけたのか、わりと早い段階から「離脱」する人が現れた。ツアー行程から離れて自由行動をするということだ。ほめられた行為ではないかもしれない。私はツアーでそんなことが可能なのだと初めて知った。

当然ながらガイドは渋い顔をした。だが結局は折れて『何が起こっても自己責任です』と一筆書けば離脱をしていいことになった。
「こんなつまらない観光やってられねーよ!」
一人が捨て台詞を吐いてバスを降りる。そのあとはもう、なし崩し。
「私も離脱します」
「僕も」
「わたしも」
我も我もとツアーを抜けていく。初日には満員だったツアーバスが最終日はガラガラになってしまった。
私たちはやや引き気味でこの状況を眺めていた。観光つきツアーに申し込んでおきながら観光放棄だなんて失礼な気がしたし、とにかく安いんだから仕方がないと思っていた。

ところが最終日、ガイドはあからさまにやる気を失くしていた。そりゃそうだろう。客はほんの数人にまで減っていたのだから。もうどうでもよくなったのか、ツアー客の女の子をナンパする始末だ。
そんなものを見せられると自然に
「抜ける?」
私とR子もそういう話になった。ツアー離脱を告げにいくと、ガイドは
「あなたたちもですか」
ため息をついたが止めはしなかった。
『私たちは観光を放棄します。この間、何があってもガイドの責任ではありません』
と念書を書いてバスを降りた。

私たちはリクシャーに乗ってメインバザールに行った。いろいろ見たはずだがインド商人に気圧されっぱなしで疲れたことしか覚えていない。結局は何も買えなかったのだと思う。あ、道端の花壇でサリーをまくしあげ、おしっこを始めたおばちゃんがいたことだけは鮮明に覚えている。

R子は相変わらず強かった。インド人にも負けなかった。果物屋台でマンゴーを買おうとしたときだ。売り子が50と言ってくるのを値切り倒そうとする。その様子が私の目には喧嘩にしか見えなかった。

売り子「50ルピー」
R子 「20ルピー!」
売り子「40ルピー!」
R子 「20!」
売り子「30!」
R子 「ダメ、20にして!」
売り子「ノー、ラストプライス、30!」
R子 「20、20、20!」

ちょっとは歩み寄れR子。
気がつけば強面の兄ちゃんたちに囲まれていた。一歩も引かない日本人を見物していただけなのかもしれないが、私は怖くて怖くて仕方がなかった。
「い、いいよ、もう30で買っちゃおうよ」
R子をひきずって逃げだした。
「あとちょっとで20ルピーになりそうだったのに」
R子はぶつくさ言っていた。

それでもたいして道に迷わなかったし、大きなトラブルもなかった。私たちは無事にツアーと合流し、日本に帰国することができたのだ。

ただひとつの問題は着替える暇がなかったことだ。着の身着のままで飛行機に乗り、メインバザールにいた時と同じ服装で家に帰ってしまったのだ。雨季のインド、ゴミだらけで、スコールのたびに下水があふれ、男たちは思い思いの場所でトイレをし、おばちゃんも街路の脇でサリーをたくしあげておしっこ始めるデリーの下町の臭いがしみついた服のまま。
「くさい! 何なのこの臭い!」
家に入ったとたん、母が悲鳴をあげた。


9. ケニア 大自然に圧倒される

2000年 ミレニアムにふさわしい旅を

ケニアへ行ったのは2000年。ミレニアムの年である。旅行仲間であるN美と話していたら、なんだかしらないけど
「大変だ!もうじき21世紀が来てしまう!」
「今のうちにアフリカに行かなアカン!」
ということになった。なにが今のうちかはよくわらない。

当時ケニア行きのサファリツアーといえばセレンゲティ国立公園をめぐる11日間のツアーが定番だった。お値段は30万円から。だが貧乏人にそんな額は出せない。予算内になんとかおさまったのは、相場の半額のモニター・ツアーだった。
『モニター特価!ケニア マサイマラ国立保護区でサファリ8日間!』
それはつまり、普通なら11日間かけて観光するところを8日で済ませる格安ツアー、ということだ。

格安のせいかどうかはわからないが飛行機がエア・インディアだった。インドの航空会社である。機内食はもちろん
「わーい、本場のインドカレーだ!」
N美は歓声をあげた……最初のカレーだけは。
しかしケニアは遠かった。インドのムンバイで乗り換え、ケニアの首都ナイロビまで1泊2日の旅路。その間、機内にはひたすらカレーの匂いが充満していた。
「昼ごはんカレーだ」
「晩ごはんもカレーだ」
「またまたまたカレーだ」
このフライトの機内食はカレーしかなかったのである。CAさんに
「チキン・オア・ビーフ?」
と聞かれてもそれは
「チキンカレーか、ビーフカレーか?」
という選択肢でしかない。ナイロビに到着する頃には私たちの血はすっかりカレー色に染まっていた。

サファリ!

ケニアは、アフリカはすばらしかった。これまでの旅もカルチャーショックの連続だったがアフリカの場合はケタが違う。世界が違う。

宿はマサイマラ国立保護区内のキャンプ場、いわゆるグランピングだった。
「朝ごはんは庭で食べましょう」
と連れ出されたら目の前にシマウマがいた。野生動物が目と鼻の先までやってきてのんびり草を食んでいる。

ホテルの庭といってもサバンナの一部を簡単な電流柵で囲ってあるだけで、どこまでが庭でどこからが野生なのかわかりゃしない。猿などは木をつたって平気で出入りしている。シマウマの向こうにはガゼルやインパラが群れている。世界は見渡すかぎり地平線までひろがりつづけ、そこいらじゅうに動物たちが暮らしている。
「こんなん、朝ごはん食べてる場合じゃない!」
食いしん坊の私とN美が生まれて初めて食べることをおろそかにするくらい、素晴らしい環境だった。

だが素晴らしすぎるゆえに、ちょっと考えた。
「ライオンとかゾウが入ってきたら危なくない?」
電気が流れているといってもそんなに高い柵じゃない。小動物は出入り自由だ。大型動物だってその気になれば入ってこられるかもしれない。私たちの疑問に答えたのは、赤い衣を着たマサイの戦士。彼らはガードマンとして雇われているのだろう。
「俺たちがいるから心配ない。俺はライオンだって倒せる」
と槍をふりあげた。頼もしい。

それでも夜は怖かった。日本の田舎でもカエルがうるさくて眠れなかったりするが、アフリカではもっと大きくて得体のしれない動物たちが夜な夜なパーティを開いている。ぎゃーぎゃーわーわーキーキーと、騒々しいにもほどがあるし、肉食獣のワイルドな咆哮が闇に響くたびに私たちは震えあがった。
「い、いま、ガオーっていわなかった?」
「ライオンかな…」
「カバかも…」
怖くて眠れない。と思いながら寝た。

そして昼間はサファリである。ジープに乗って数えきれないほどの動物を見た。ゾウの交尾、ヘソ天で眠るライオン、恐ろしいほどのカバの群れ、神々しいキリンの親子、お尻が可愛いサイ、犬みたいな顔のハイエナ、美しいヘビクイワシ、狩りに失敗するチーター、太ももが青あざになってるみたいなトピ…

動物たちはあまりにも自由であまりにも美しく、逆トラウマになってしまい、動物園の檻に入っている動物を正視できなくなってしまった。

私はカメラ小僧なので、この頃は300ミリくらいの望遠レンズを持って旅行してた。初めて望遠レンズが役に立ったのがこのサファリだ。

「あ、人死んでますね」

サバンナから空港のあるナイロビに戻ってくると大都会に見えた。ナイロビはケニアの首都なんだから当たり前だ。交通量も多い。急に道が混みだしたなと思ったら、事故のせいだった。トラックが変な所で停まり、おまわりさんがウロウロしている。

窓から顔をだして様子をみていたガイドさんが
「あ、人、死んでますね」
そっけなく説明した。
それは
「あ、あれ、シマウマですね」
と言うのとまったく同じ口調だった。そばを通りすぎるとき嫌でも見えた。男性がトラックに轢かれてぺちゃんこになっている。布をかぶせることもなく。あたりの車はむきだしの死体のすぐ脇を通っていく。

道端では警官とトラックの運転手が話し合ってたが、やけに落ち着いていて、救急車を呼ぶといった風でもない。運転手は不満そうな顔つきだったし、警官に至っては死体よりもトラックからこぼれ落ちた野菜を片づけようとしている。

インドでは貧しい人々が生死の判別がつかない格好で道端に転がっていたりするが、ケニアではまた違う命の軽さを感じた。いや、軽さではない。死の自然さ、とでもいうのだろうか。

ナクル湖ではフラミンゴの死体をあさる死神のようなハゲコウを見た。サバンナではライオンがヌーを食べているのを見た。土産物屋の駐車場にも何かの骨が散らばっていた。

どこにでも、至る所に「死」はごろごろしていた。日本では死は不浄のものとされ、死をおそれている。だがケニアでは空気と同じくくらいありふれたものにすぎない。死はごく自然なもの、あたりまえのものなのだ。生あるものはすべて死んで土にかえり、動物たちの胃袋を通じて命は再生され、果てしのない大地を循環していく。

ツアーの人が集って何を撮っているのかと思ったら、シマウマの死骸だった。
「だって動物園じゃ死体なんて見れないよ!」
それは軽薄な好奇心ではなく、動物園では見られない自然の姿を教えられたような、おごそこかな気持ちから出た言葉だった。

飛行機の遅延

飛行機とは遅れるものだ。あんなデカイもの空に浮かべるんだから遅延くらい我慢しなければならない。そう思っていたのだが。何事にも限度というものがある。

ツアーを終えた私たちはいよいよ帰国の途についた。だがナイロビ空港のフライト掲示板には「Delay」となっていた。遅延である。通常なら変更された時刻が表示されるはずだが、それもなく、ただ一言「Delay」。

エア・インディアの職員を見つけて聞いてみたが
「いつ飛ぶかわかりませんので、待っててください」
不安にならなかったといえばウソになるが、焦っても仕方がない。なにせ日本は遠いのだ。1時間2時間遅れたところで変わらない。私たちはツアーメンバーと一緒に待合室に腰を落ち着けた。

最初のうちは楽しかった。売店をのそいたり、空港の中をあちこち見てまわったり。おやつをポリポリ食べながら、それぞれの旅の話に花を咲かせた。

ところが待っても待っても飛行機はこない。エア・インディアの職員は相変わらず
「そこで待ってろ」
というし、時折、思い出したようにアナウンスが流れても
「エア・インディアはまだ来ません」
「まだなんです」
「まだです」
「まだです」
「まだ」
「まだ」
まだまだまだまだ、で9時間も待たされた。

9時間である!

1時間2時間の遅延ならよくある。「3,4時間かかるからご飯食べてきてね」とミールクーポンを渡されたこともある、だがこのときはひたすら「そこで待ってろ」で9時間だ。空港から出ることも許されなかった。

おしゃべりな私たちもさすがに話題が尽き、最後のほうは口を開くのも面倒になって、メンバー全員でただぼんやりと座っていた。退屈を極めると人間は無言になるのだと知った。
「ただいまよりエア・インディアの搭乗を開始します」
とアナウンスがかかったときの解放感は忘れられない。ちなみに機内食はもちろん全食カレーであった。


8. トルコ一人旅

1999年 長期滞在を志す

25歳になったあの夏、世間には世紀末思想が萬延していた。
『1999年7の月、人類は滅亡する』
いわゆるノストラダムスの大予言である。そんなことあるはずがないと頭ではわかっていたが、それでもなんとなく
「人類はもうすぐ滅びるのだから何もかもどうでもいい」
みたいな空気がほんのり漂ってた。

そんな中、私は旅に出た。人生2度目の一人旅だ。
バンコク一人旅に成功させたので
「次は『滞在』だ!」
と目標を定めていた。旅慣れた旅行者にあこがれていたのである。安宿に沈没しているバックパッカーみたいになりたかったのである。相変わらずアホである。

そりゃもう不安でいっぱいではあったが
「人類は滅びるんだし、どうせ死ぬのなら旅先で」
と捨て鉢な気分も手伝っていた。
だがノストラダムスは嘘をついた。
1999年7の月、人類は滅亡せず、私はトルコでエロいおっさんと戦って過ごすことになった。

痴漢と戦うイスタンブール

なぜトルコで長期滞在を目指したかというと、タイの時と同じ「初めての場所は怖いから」というヘタレな理由である。

とにかく1か月間、ひとつの国ひとつの町に滞在しようという、というコンセプトだった。ツアーのように慌ただしく通り過ぎるのではなく、じっくり長期間滞在することで見えてくるものがあるはず…ではないか? それが何かは知らんけど。

私は腰を据えてみた。トルコのイスタンブールで同じ宿に泊まりつづけ……ぼんやりと過ごした。

ブルー・モスク

ぼんやりしちゃったのも無理はない。「1か月間を過ごす」以外、何も考えていなかったのだから。何も目的がない30日間。はっきりいって、暇だった。退屈で死にそうになった。そりゃあイスタンブールはおもしろい町だ。観光地には事欠かない。ブルー・モスク、アヤ・ソフィア寺院、トプカプ宮殿、ガラタ塔、などなどなど! あちこちに絨毯屋があって猫がいて、食べ物は日本人の口にあう。エミノニュ港の鯖サンドは最高だ。

それでも30日は長すぎた。
マルマラ海の夕焼けはとても美しく、毎日あちこちの港に夕日をみにいったものだ。そして毎日、
「君、だいじょうぶ?」
と心配されたものだ。女ひとりで夕暮れの海辺にたたずんでいると、失恋したか人生に絶望して自殺を考えているように見られるらしい。ただ景色を楽しんでいるだけなのに失礼である。

パックツアーのように慌ただしく通りすぎず、じっくりと腰を据えて滞在した結果、トルコには
「痴漢が多い」
ということがわかった。
基本的に中東はセクハラが多いのだ。イスラムの教えは厳格だが、その反動か、異教徒には何をしてもいいみたいな風潮がある。そこへきて日本にはっきりと「ノー」を言わない文化があるから、ノーじゃないならイエスだろうとつけこまれ
「日本人女はちょろい」
と思われてしまっている。そういう連中は顔とか年齢とかぜんぜん関係ない。生物学的に女性であれば手当たり次第。

トルコだけじゃない。エジプト、ヨルダン、シリア、イスラエルあたりではしょっちゅうウザい男に遭遇する。
「どこ触ってるねんボケ!」
くらいに関西弁で凄んでやると言葉は通じなくても相手は退散していく。要ははっきりノーと言えばい。

だが初めてのときはそんなこと言えなかった。若かったし、日本では女扱いされることがなかったから、ただただびっくりしてキョトンとしていた。おぼこいお子様だったのだ。

最も怖い思いをしたのは、アナドル・カヴァウという景勝地でのこと。イスタンブールから日帰りで行ける観光地だ。船で1時間半ほどボスポラス海峡を北上する。ガイドブックによれば城砦跡があり黒海がみわたせるということだったが、船を降りたところにはなにもなかった。

地図をみてもわからなかったので、そのへんを歩いている地元の人に
「城砦はどこですか?」
と尋ねてまわる。何人か尋ねているうちに
「案内してあげよう」
親切なおじさんが先導してくれることになった。
「ちょっと歩くことになるけどいいかい?」
もちろんです。助かります。

当時の私の認識は
「声をかけてくる人間には下心がある。英語ペラペラの男には要注意」
というものだった。逆に言うと、こちらから声をかけた相手は絶対に安全だと思っていた。

おじさんは英語はほとんど話せなかった。中年でやせていてペンキで汚れた作業着を着ている。服装は汚かったけど仕事着なのだろうと気にしなかった。おじさんは山道をのぼって歩いた。獣道みたいな険しい道だ。地元民の案内だし、城砦が山の上にあるということは知っていたので何も疑わなかった。

一度だけ、道中でおじさんに話しかけた人がいた。農作業中のおばあちゃんだ。作業の手を止めて
「どこへ行くんだい?」
と尋ねたようだ。
「観光客さ。山の上まで案内するんだ」
作業着のおじさんが答える。おばあちゃんは顔をしかめ、私にむかって何か話しかけた。今考えてみれば、きっと心配して止めてくれていたのだろう。気をつけろと。あの男は危ないと。でもトルコ語だからぜんぜんわからなかった。

おばあちゃんに愛想笑いだけ返して私たちはどんどんと山道をのぼっていった。道は思ったよりずっと険しく、未舗装で、森は鬱蒼としげり、枝葉が道までおおいかぶさっている。枝を払い、息をきらせてのぼっていると
「手をかそう」
男が手伝ってくれた。このとき、その手の握り方がちょっとおかしいなと気づいてはいた。その時点で振り払えばよかったのに。
「あともうちょっとで頂上だ。黒海が見えるよ。ああ、足元が危ない」
とかなんとか言いながら、どさくさに紛れて男は私を押し倒してきた。崩れかけた山道で。周りは森で。誰もいない。
「うおおおお!」
やべえやべえやべえ。
「よいではないか、よいではないか」
よいわけがない! おっさんの力は強かったけど、私のほうが坂の上にいたので優位だった。私は全力でおっさんを振り払い、立ち上がった。

おかしな言い方だが、中東の痴漢は物分りがいい。異教徒には何をしても許されると思いこんでいるだけで計画的な犯罪者ではない人も多いのだ。キッパリと拒否すればあきらめる。
「そうかダメなのか」
おっさんは引き下がり、私から離れた。でもあきらめきれずに片膝をついた。
「じゃあ俺と結婚してくれ!」
……なにいってんだこいつ。
「せめてチューだけでも!」
唇をつきだした顔がキモすぎて吐きそうになった。その顔を膝蹴りするか「警察を呼ぶぞ」とでも言ってやればよかったのだが、私は逃げ出すことしか考えられなかった。

頂上はすぐそこだったので駆けあがった。視界がひらけて救いの神があらわれた。外国人観光客だ。西洋人の若いカップルがいた。彼らはなにげなく「こんにちは」と挨拶したあと、私の表情に気づいて
「大丈夫?」
と声をかけてくれた。私は泣き笑いで「大丈夫」と答えた。振り返ると、おっさんは逃げるように山を駆け下りていくところだった。

アナドル・カヴァウから見える黒海は太陽にキラキラと輝いてとても美しかった。私はそのあと具合がわるくなって丸一日寝込んだ。ちょうど7月31日、つまり1999年7の月が終わる日のことだった。

バストラブル

それから間もなく私はイスタンブールを離れた。郊外で嫌なことがあったから、ではなく「飽きたから」という理由で。30日は長かった。しょせん観光客だからどうしようもないのだけど、観光しかすることが見つからなくて、なんていうかもう間が持たなかった。憧れた長期滞在は自分には向いていないと感じた。

「よその町へ行こう」
決意した私は旅行会社で長距離バスのチケットを買った。数日後にたまたま皆既日食があるとかでトルコ国内はえらく盛り上がっていた。テレビでは連日、日食日食と唱えているし、街なかでは日食イベントのポスターが貼ってある。お祭り騒ぎだ。食傷気味になるくらい。

そんなときに旅行会社を訪れると第一声から
「いらっしゃい日本人、日食をみにいくんだよね!」
と決めつけてかかった。日食ツアーでがっぽがっぽ稼いでいたのだろう。ひねくれ者の私はなんだか頭にきて
「ちがいます」
と答えた。
「日食にはこれっぽっちも興味ありません!」
アホだなあと思う。実はすごく見たかったくせに。皆既日食なんて拝めるチャンス生涯に2度とないかもしれないのに。これだけは本当に後悔している。

猫も杓子も日食日食とうるさく、皆既日食がみられる地域のホテル代は高騰しているという話だった。その手には乗らないぞという意地もあったが、一方ではトルコの美しい海から離れたくないという気持ちもあった。そこで私は
「本当に日食みなくていいの?」
という旅行会社の人にさからってクシャダスという海沿いの町へ行く長距離バスのチケットを買った。

トラブルはそのバスで起こった。私は送迎付きのチケットを買っていた。宿からバスターミナルまでを車で送迎してくれるのだ。この送迎車が1時間ほど遅れたのがすべての原因だ。バスターミナルに着いたとき、乗るはずだったはバスはとっくに出てしまっていたのだ。

運転手に文句をいうと新しいチケットに交換してくれた。チケットには8時半出発と書いてある。だがバス番号の記載がない。どのバスに乗ればいいのかさっぱり分からない! カウンターに聞きに行くが猛烈に混んでいて相手をしてもらえない。
「そこで待ってて」
と放り出されるだけ。

仕方がないのでチケットを見せながら
「このバス、クシャダスに行く?」
と聞いてまわった。ようやくクシャダスを通るというバスを見つけて乗り込んでみたら
「このバスは9時半発だよ」
と言われた。おや、8時半のバスはどこへ行ったのだろう?

でもどこを見渡しても他にクシャダス行きのバスは見当たらない。運転手にチケットを見せ、これで乗れるのか尋ねたところ、
「うん、乗ってのって」
と促された。それで乗った。
発車したときバスはガラガラだったが、だんだん混み始めた。
「この席、僕のなんだけど、どいてくれない?」
と言われて初めて席が決められているのを知った。

さあ困った。
私が持っているのは8時半のバスチケットだ。当然、9時半のバスに席はない。満席にならなければバレないかもしれないが、そうもいかない。当たり前だけどチケットチェックがあるからだ。

切符を拝見、とまわってきたとき
「君のチケットはこのバスのものではない!」
車掌さんは激しく攻め立ててきた。トルコ語だが、怒られていることはわかった。無賃乗車したみたいな言われ方だった。気がつけば大勢の乗客に取り囲まれていた。
「でもこれでいいって、運転手さんに聞いたのに!ちゃんとお金は払ったんだよ!」
もう泣きそうだった。
というか、泣いてた。

そのとき
「どうしたの」
英語で声をかけてくれた人がいた。
「通訳してあげるよ」
マリオみたいな髭のトルコ人集団の中に涼やかなヨーロピアンが現れた。私以外にも外国人がのっていたのだ。

救いの神は、べそべそと泣いている私のへたくそな英語につきあって、しんぼうづよく話を聞いてくれ、それを車掌と運転手に伝えてくれた。
「しかたがないな。次からは気をつけるんだよ」
なんとか理解してもらえたらしい。車掌さんは怖い顔で補助席を用意してくれて
「君の席はここだ!」
と指さした。私は居場所を確保できたのだ。通訳してくれたヨーロピアンに100回くらいありがとうを言った。

このバスに無理やり乗り込んだのは私だけじゃなかった。もうひとり、途中から乗ってきた人がいる。中年の女の人で、やっぱりちゃんとしたチケットを持っていなかった。それなのにどうしても乗せてくれという。最後には懇願が主張に変わった。
「私は! どうしても!このバスに乗らなければいけないの!」

空席がないから乗せられない。定員オーバーは違法である。運転手は断固として拒否し、怒鳴りちらし、私のときの非じゃないくらい激しくやりあった。ケンカだった。それでも女性は乗せてくれと言い張った。運転手はとうとう根負けした。女性はものすごく感謝しながらバスに乗ってきた。

補助席は私が使っていたため、空いている座席はもうなかった。彼女は通路に腰掛けるしかなかった。十数時間もの長旅だというのに、だ。どんなにお尻が痛いことだろうか! トイレ休憩のたびに呻きながら腰をのばす彼女を見ていられず
「代わりましょうか」
と持ちかけたら、女性自身だけでなく運転手と車掌と三人がかりで
「それはダメだ」
と強く言われた。正規の運賃を払っていないからだろう。

深夜、その女性に起こされた。他の客もみんな目を覚ましてごそごそと荷物をまとめている。「降りるわよ」
と女性に言われた。到着したわけじゃない。フェリーで海を渡るのだ。乗客はいったんバスを降りてフェリーに乗り換える。

私は女性についてバスを降りた。彼女は「ニンジェ」と名乗った。身振り手振りで、足元に気をつけるようにとか、トイレはこっちだとか親切に教えてくれたし、お茶までおごってくれた。頼りない私が気になるのか、それとも同じ年頃の娘がいるのかもしれない。ニンジェの優しさはなんとなくお母さんみたいだったから。

フェリーの甲板でチャイをごちそうになったとき、初めて彼女の顔をはっきりと見た。苦労によって深い皺を刻みこまれた顔だった。瞳は深い悲しみに覆われ、目の下には大きなくまができている。こんなにも悲しげな顔をして、どうしても今すぐ長距離バスに乗らなければいけない理由……もしかしたら家族が亡くなったか、重い病気なのかもしれないと、私は勝手な想像した。それくらいの理由でもないとあの車掌が折れるはずがないと。

ニンジェも私も疲れていたからあまり話さなかった。どうせ言葉が通じない。それで2人でチャイを飲みながら黙って夜空を見つめていた。夜のマルマラ海は穏やかに黒々とひろがり、カシオペア座と白鳥座が輝いていた。

やがて長距離バスは無事にクシャダスに到着した。私はしばらくクシャダスに滞在し、エフェスやミレトスやパムッカレといった観光地をめぐった。

パムッカレの石灰棚

8月11日、私はディディム遺跡で日食を迎えた。皆既日食ではなかったが太陽は4割くらい欠けた。薄暗くなり、ほんのりと涼やかになった。気がつけば小鳥たちは歌うのをやめていた。

うるさいセミたちでさえ黙りこくっている。ひとけはなく、遺跡は静まりかえっていた。
私は太陽神アポロンの神殿に立った。古代、神託が行わていたその上空で、太陽は徐々に姿を変えていく。崩れ残った巨大な柱が太陽に手をのばしている。無造作に転がされた彫刻は泣き顔を浮かべている。かげりゆく真昼の空にエザーンが流れていた。

異国で大地震に遭う

ノストラダムスの大予言ははずれた。恐怖の大王は降ってこなかったし人類は滅亡しなかった。

私はすっかり安心して再びイスタンブールに戻ってきた。一か月ときめた旅行の期限が迫っていたからだ。外国人観光客がわんさかいるスルタンアフメット地区に宿をとり、最後のトルコをのんびり楽しんでいた。

だが……1999年、8月17日。あと2日で帰国というときに、大地震がトルコを襲った。

日記には「午前3時頃」と書いている。なかなか寝付けない夜で、ようやく寝入ったと思ったら、地鳴りで目がさめた。大地の深淵からひびいてくる不気味な唸り声。
「地震だ!」
私は反射的にベッドをとびだしてドアを開けに走った。「まず避難路を確保しろ」。4年前に遭ったばかりの阪神大震災の教訓を忘れていなかったから。

ドカンと突き上げるような大きな揺れがきた。
隠れるところがなかったので毛布を頭からかぶった。
トルコまで来てまだ揺れるなんて!
「くそー! はらたつー!」
怖いよりも腹が立って叫んでいた。せっかく地震大国日本からぬけ出してきたというのに。地震なんかもう飽き飽きだ!

揺れは長かったが予想ほど大きくはなかった。私の体感では震度4くらい。ほっとして
「もう一回寝よ」
と毛布を整えた。眠かったし、地震のせいで睡眠不足になるのはイヤだったから。余震にそなえてベッドはすぐ開くようにしておいたけど。

だが眠れなかった。
宿中、大騒ぎになったからだ。
安宿には世界中からバックパッカーが集まっているものだが、多くの人々は地震慣れしていない。
「死ぬかと思った死ぬかと思った死ぬかと思ったー!」
大声で泣きわめいているのはアフリカ系の男。
「大丈夫か、ケガ人はいないか?」
宿のスタッフと一緒に点検してまわっているのはアメリカ人。
「まあまあ大きかったですね」
「震度4くらいですかね」
のんびりし話しているのはやっぱり日本人。他の人たちに「なんで君らはそんなに落ち着いてるんだ!」と怒られていた。

窓の外はもっと大騒ぎだったが暗くて何も見えなかった。停電していたのだ。部屋の明かりもないし街灯もつかない。怒鳴り声と水音が聞こえてきたから、水道管がどうにかなっていたのかもしれない。だが私には何もできない。とにかくねむい。だから寝た。余震とかあんまり構わずに寝た。だって震度4だもん。たいしたことない地震でよかったよかった。

と、思ってたのに。
実は大変な地震だったことを翌日になって知らされた。震源地はイスタンブールから70キロ離れた町でマグニチュードは7。死者は1万人を超え、イスタンブールでも大きな被害が出ているという。

私の宿はなんともなかったが、他の旅行者から
「うちの宿は半壊だよ」
と聞いて驚いた。
「危ないから部屋を出るように言われて、みんなで野宿したんだよ」
彼女が泊まっているのは同じスルタンアフメット地区の安宿、私が泊まっていた宿から目と鼻の先にあった。が、私が泊まった宿は比較的新しく、料金も少し割高だったため、難を逃れた。半壊した宿はかなり古くて安い宿として有名だった。やっぱり宿選びって大事かもしれないと思った。

イスタンブールの町はどんよりと沈み、混乱していた。レストランも土産物屋も大半が店を閉めていた。信号もつかないしトラムは半日停まっている。公衆電話には長い列ができていた。私も並んでみたが国際電話はどうしてもつながらなかった。まだメールもインターネットもあまり普及していない時代のことで、日本に連絡する手段はなかった。

イスタンブール市街を見下ろす

地震の翌日、私は日本へ帰るために空港へむかった。道路は大丈夫だったが空港は大混雑だった。
「コンピューター、ストップ!」
と言われた。停電で大変なことになっていたのだ。飛行機は飛ぶのかなあと心配したが、さほど遅れることもなくちゃんと飛んだから逆にびっくりした。

仰天したのは日本に着いてから。なんと、家族総出で空港まで迎えにきていたのだ。高齢の祖父までも! 一体どうしたの?
「どうしたのって、あんた、大地震があったんでしょう」
母がわあわあ叫んだ。
「おねーちゃん死んだかと思って」
とR子。
「大変に心配しました。無事でよかったでしゅ」
と祖父。
たいしたことない、震度3か4だったよと答えるとえらく怒られた。

イスタンブールの中でも、私が歩いた範囲では停電や断水が主な被害で、ところどころ瓦礫が落ちているという程度、地震直後の神戸とは比べものにならない様子だったからピンとこなかった。だがトルコの大地震は日本のメディアでも大きくとりあげられていた。
『イスタンブールでは400人が死亡、空港への道は寸断されている!』
これは帰ってこれないかもしれない、悪くするとケガをしたか死亡した400人に入っているかもしれないと家族は心配した。

とくに祖父は大慌てで外務省に電話をして問い合わせたそうだ。
「うちの孫娘がトルコへ行っとるんです。地震で死んだりしてませんでしょうか」
するとしばらくして折返し連絡があったそうだ。
『日本人の被害報告はありません。お孫さんは昨日イスタンブールの◯◯という宿をチェックアウトされ飛行機に乗りました。無事だと思われます』
「そう言われてもな、顔を見るまでは信じられへんかった。心配しましたでしゅ」
え、ちょっと待って? 外務省の調査能力すごくない? イスタンブールを旅行中の日本人なんておびただしい数なのに、誰がどの宿に泊まっててチェックアウトしたところまで把握してるの?

心配してくれたのは家族だけではなかった。親戚や友達にも電話しまくって無事を報告すると
「良かった。これでやっと眠れる」
と泣かれたりした。
知らないあいだにこんなにも心配をかけてしまったのだと、申し訳なく思った。
旅は、絶対に無事で帰ってこなければならないのだと、このとき心に誓った。


7. バンコク一人旅

1998年 一人旅に挑戦!

モンゴルで死線を越える経験をした私はさらに強くなった。……と、自分では思った。ドラクエでいうとたぶんレベル4くらい。ドラキーならノーダメージで倒せる自信がある。

そこでもっとハードな旅に出ようと思い立った。ついに、冒険者初めての試練に挑戦すときが来たのだ!
つまり。
それは。
一人旅である。

それでもやっぱりヘタレな私。知らないところへは怖くて行けない。知っているところは限られている。じゃあ、タイへ行こう。R子と旅した経験のあるタイへ。タイの人たちはみんな優しかったし、一度歩いた町だからなんとなく安心だ。

ということで初一人旅はバンコクを中心に旅することに決めた。
それだけではない。
なんと!
今回は、宿を決めずに出かけたのだ!

宿の現地調達なんてバックパッカーにとってはごく当たり前のこと。バンコクにはおびただしい数の宿やホテルがあるからベッドにあぶれることはない。

けれどビビリでヘタレで泣き虫の私にとって、生まれて初めての宿探しはむちゃくちゃ不安だった。最悪、野宿になるのだから。それでも「宿探し」というものをやってみたかった。なんだかとても……冒険のような気がして。相変わらずヘタレなうえに馬鹿なのである。

旅立ちの前夜は、緊張しすぎて眠れないどころではなく、出発前からもうお腹をこわしていた。

チャイナタウンのゲストハウス(約1350円)

バンコクに着いて最初の宿をどうやって決めたのか記憶にない。たぶんガイドブックに載っている中から目星をつけたのだろう。

チャイナタウンの川沿いにある安ホテルだった。小さくて貧しげな民家がみっしりと並んだ奥に隠れるように建っている。トゥクトゥクに住所を告げると運転手はだいぶ苦労しながら探しだしてくれた。

ホテルのフロントは静まりかえっていた。客の姿はなく部屋はいくらでも空いているようだ。緊張で声を震わせながらフロントのおばちゃんに声をかけた。
「今夜、泊まりたいのですが、シングルルームはありますか?」
たどたどしい英語だったが300回くらい練習していったからちゃんと通じた。おばちゃんはそっけなく答えた。
「ファン(扇風機)なしがいいか、ファン付きがいいか?」
「……エアコンは?」
「エアコンは壊れている」
この時点で引き返すべきだった。7月のバンコクは雨季真っただ中。湿気もすごいし死ぬほど暑い!エアコンの壊れたホテルなんかに泊まりたい人はいないだろう。

ところが私には勇気がなかった。もともと持ち合わせの少ない勇気をここへ来るまでに使い果たしている。もう一度ホテルを探してトゥクトゥクで行ってフロントで「部屋はありますか?」と英語で言うなんて無理だ。それに、次のホテルで「満室だよ」と言われたら野宿になっちゃう心配があった。

「ファンなしなら450バーツ、ファン付きなら550、どっちにするの?」
フロントのおばちゃんに迫られたとき、いっぱいいっぱいだった私は、とっさに
「ファンなしで…」
と答えてしまった。とっさに値段を気にしていた。

チェックインし、部屋で一人になったとたん、涙がでてきた。はりつめていた緊張がほどけたのか、疲れがでたのか、野宿せずにすんで安心したのか。
「この心細さにいつか慣れるのだろうか」
と泣きながら寝た。旅を重ねるうちにだんだん面の皮が厚くなって野宿でも泣かないようになるのだが。

安ホテルはチャイナタウンの下町にあった。夜になると半裸の男どもが道ばたでゴロゴロと寝ている。妖怪みたいなおばあさんが道をふさいでいる。深夜におっさんの号泣で目を覚ます。

ホテルのすぐそばには毎朝、小さな市が立つ。屋台でおかゆの朝ごはんを食べたり果物や揚げパンを買えるのは便利だった。近くには神社のような廟もあり、若いお母さんが子供を遊ばせていた。ホテルの裏にはチャオプラヤー川が悠々と流れている。涼しい風の吹く川べりは天国のように心地がよかった。

地元の生活を間近に見られるのはよかったが、すぐにそんなこと言っていられなくなった。なにしろエアコンも扇風機もない部屋だ。サウナに宿まってるみたいなもんだ。シャワーを浴びても浴びても服を着る前に汗だくになる。昼間はともかく、夜も眠れたもんじゃない。

2日目で全身にあせもができ、3日目にじんましんに進化したところで宿替えを決意した。我ながら3日もよく耐えたと思う。次の宿を探す勇気が出なかっただけなのだけど。

カオサンのゲストハウス(約700円)

扇風機すらない安ホテルをチェックアウトした後、私は荷物をかついでカオサン・ロードにやってきた。外国人向けのカフェや旅行会社や土産物屋が立ち並ぶ、バックパッカーの聖地と呼ばれている通りだ。カオサンには安宿がひしめいており泊まる場所には困らなかった。

エアコン付き、シングル、そしてトイレがちゃんと流れること。それだけの条件で宿を決めた。なるべく安い宿を選んだ。生まれて初めてゲストハウスに泊まった感想は
「ここは牢獄か?」
だった。せいぜい3畳一間の薄暗い部屋。明り取りの小窓にはガチガチの鉄格子がはめられている。家具は木製のガタガタするシングルベッドのみ。

枕元のドアをあけるとシャワーとトイレがあった。というか、個室トイレの便器の真上にシャワーがついていた。
「トイレとシャワーが同時にできるなんて便利やん」
とか思ったが、実際にやってみるとトイレットペーパーがびしょ濡れになってしまう。ぜんぜん便利じゃない。シャワーも水しか出なかったが、それでもエアコンがついているのでありがたく泊まることにした。

バックパッカーに教えてもらった宿(約1350円)

その後、観光地でたまたま知り合ったドイツ人に、宿選びに苦戦している話をすると大笑いされた。
「ファンなしで450バーツだって! ボッタクリもいいとこだな!」
そうか私はぼったくられていたのか。
「俺の泊まってる宿を紹介してあげるよ。そこも450だけど、エアコンつきでホットシャワーとテレビと湯沸かしポットがついてるよ」
「それ完璧やん!」
彼に連れていかれた宿はたしかに450で、エアコンとホットシャワーとテレビとポットとそのうえなんとシャンプーハットまで付いていた。ここは天国かと思った。

ただフロントのおばちゃんがすごく怖かった。ドイツ人には愛想よく笑いかけるくせに、私には挨拶も返してくれないし、ものすごい目でギロリと睨んでくる。理由はわからない。何もかも完璧な宿なんて無いのだと知った。

あちこちを旅するようになった現在でも私は宿探しが苦手である。面倒くさくてたまらない。旅慣れたバックパッカーは大抵、宿選びにこだわりをもっている。ここは汚い、ここは壊れている、だから安くしろ、などなど妥協せずに何軒も見てまわるものだけど…重い荷物をかついで歩き回るのはとても疲れるし時間の無駄だ。失敗してもかまわないから、口コミを頼りにネット予約してから行くほうが私は好きだ。


6. モンゴル 死ぬかと思った食あたり

1997年 大草原を見たくて

ワイルダー著『大草原の小さな家』を読んだとき「大草原ってどんなだろう」と思った。私の住む田舎町には、田んぼはあっても草原なんてなかった。大草原と聞いて思い浮かぶのはゴルフ場くらいだ。想像力にとぼしい私の頭のなかで、『大草原の小さな家』の登場人物たちはゴルフ場に家を建てて住んでいたのである。

これではいけないと思った。
本物の大草原をみにいこう。
草原といえばモンゴルである。
モンゴルの大草原を馬で走ろう!

ということでモンゴルへ行くことになった。なぜアメリカではなかったのか。

モンゴルへはツアーに参加した。『遊牧民のお家にホームステイ!』が目玉のツアー。またしても添乗員さんやガイドさんに貼り付いていれば楽ちんである。にもかかわらずまさかの事態が起こり、死にかけることになった。

参加者20人ほどのツアーだった。場所が場所だからか、一人参加も珍しくない小さなツアー。

モンゴルで初めてみたものは月だった。ウランバートルに到着したのは朝の3時半。空港からホテルまでの道のりは炭を流したような景色に時折背の低い信号がとぶくらい。ホテルに着いてやれやれと荷物を下ろしたとき、窓から月が見えたのだ。
かがやく真珠色、外側はブルー。見たことがないほどきれいな月だった。ぼんやり見とれていたら、夜があけた。

翌朝、プロペラ機で草原へ向かう。モンゴルでは草原こそが観光地だ。ホテルの代わりにゲルが立ち並ぶツーリストキャンプがある。ゲルとは遊牧民の住むテントだが、つくりは観光客向けでも代わらない。ベッドが赤で統一されているなど案外きれいだし、お湯の入ったポットまであった。
「あ、お茶いれて飲もう」
と同室の女の子がポットを開けたが、
「・・・毛がいっぱい浮いてる」
と言ったので誰も飲めなかった。馬の毛だろう。草原のいたるところに馬はいた。

まぼろしの山、まぼろしの星

夕方、同じツアーのおじさんと散歩にでかけた。
「あの丘を目指そう」
とおじさんが言う。ツーリストキャンプの裏になだらかな丘があった。奈良の若草山みたいな緑の丘だ。

出発したのが8時。夏のモンゴルではまだまだ真昼のような明るさだ。私達は元気に歩き出した。モンゴルの草原。どこまでも広がる草の海。どっちを向いても地平線だ。

風がごうごうと吹きわたって草がなびいている。人工的なものは本当になにもない。なんにもないけれど鳥や虫や小さな生き物たちで満ちているのがわかる。人間の営みすら、ささやかな生き物たちのひとつにすぎない。

こう広いと、どこまでも歩きたくなる。
「歩け歩け」
おじさんと2人で歩きつづけた。
夏の太陽はなかなか沈まない。9時をすぎてようやく地平線に近づいたお日様は、赤色ではなく、てらてら光る白銀の玉だった。玉のまわりは金色だ。玉から放たれる光が、何千本もの金銀の矢になって大空に放射されていく。光の矢は草原をつつみ、私達を貫いて、地平の彼方へと達する。遠くに浮ぶ雲はぶどう色になり、それから深い赤ワインの色へ変わる。

……いや、詩的になってる場合じゃない。ここはひとつ冷静に考えなければならない。私はおじさんに指摘した。
「目指して歩いてるあの丘、あれは丘じゃないかもしれません」
「そういえば、ここも登り坂のような気がするな」
傾斜がわからないほどゆる~い上り坂の草原。それが地平線まで続いていると、遠目には丘に見えるのだった。つまり私たちは「存在しない丘」を目指して歩きつづけていたのである。
「帰ろうか」
草原のど真ん中で日が暮れるときっとものすごく怖い。帰り道は、いやに遠かった。

運命の馬乳酒

あれは何軒目のゲルだったか。
「遊牧民は訪問客がくると手厚くもてなす習慣がある」
といって盃をさしだされた。なにやら濁った液体が入っている。
「これは馬乳酒です」
添乗員さんは日本語で言った。
「日本人の体には合わないので絶対に飲まないでくださいね! 口をつけるフリ、飲んだフリだけにしてください」
そんなこと言われても。好奇心には勝てないじゃないか。馬乳酒っていうと馬のお乳だぞ。どんな味がするのか試してみたいじゃないか。

虫をかじったあの時と同じワクワク感が湧いてきて抵抗できなかった。飲んだフリのフリをしてこっそりと飲んだ。一口だけ……いや、半口ていど、コックリと。

それが運命の分かれ道。

ということになってるけど、そのあとラクダの乳とかラクダのチーズとかジャンジャン出てきたから、正直どれに当たったのかはわからない。

地獄のはじまり

一旦草原を去り、モンゴルの首都・ウランバートルに向かう朝のことだった。ゴビの空港で突然、猛烈な吐き気におそわれた。
あまりにも急だったので、
「うわっ、吐くかも!」
と思わず叫んだ。
「トイレトイレ、トイレはどこだ!」
口を押さえながらたどり着いた野外トイレはウンコが山盛りになっていた。いろいろ修羅場だった。

無事に飛行機に乗ることはできたが、離陸も着陸も気づかずに眠りこけていた。そのあとホテルで大人しくしていればいいのに、一度吐いてしまうとすっきりするものだから「もう終わったんだろう」と思って観光バスへ乗りこんでしまった。

本当に馬鹿だった。それは終わりどころか、始まりだったのに。

連れて行かれたのはウランバートルの恐竜博物館だった。大きな骨格標本が飾られているはずだが私はなにも見ていない。博物館に着いたとたん、猛烈な吐き気と下痢が襲来したのである。 立っていることもままならない。顔を上げるだけで吐いてしまう。

添乗員さんは事務所のような小部屋に私を連れていき、丸イスに座らせると
「車を呼ぶからここで待ってて」
と足早に去っていった。

静かな部屋だった。ビニール袋を握りしめ、ひとり吐き気に耐えていると、
「だいじょうぶかい」
と声をかけられた。目をあげるとしわくちゃな顔があった。しわくちゃのモンゴル人のおばあちゃんが心配そうに私を見つめていた。120歳くらいに見えた。モンゴル語はさっぱりわからないが優しい声で話しかけてくれた。
「あんた、お腹が痛いのかい。かわいそうにね」
私は答えることもできずにただ泣いていた。

おばあちゃんはそうっと私の手をとった。ゲロで汚れている私の手を拭いてくれた。しわくちゃであたたかい手だった。そうして指で、私の手のひらに不思議な模様を描きはじめた。低い声で、歌うような節をつけて、なにごとか呪文を唱えながら。
呪文が終わると
「もう大丈夫だよ。これできっとよくなるよ」
と言ってくれた。つらくて心細くてたまらなかった私は、おばあちゃんの優しさにまた泣いてしまった。

寝込む

残念なことにおばあちゃんの呪文はぜんぜん効かなかった。添乗員さんが呼んでくれた車でホテルに向かい、ベッドに倒れこむ。ウランバートルは首都なのでちゃんとした普通のホテルに宿泊した。

お腹の状態は坂を転がりおちるようにどんどん悪くなっていった。
下痢と嘔吐の間隔がどんどん短くなっていく。20分、15分、10分、5分…。胃も腸もひっくりかえり、食べたものも飲んだものもすべて流れていってしまう。お腹はとうに空っぽなのに嘔吐は止まらない。一体なにがこんなに出てくるんだろう。このまま内蔵までも出尽くして死んでしまうんじゃないだろうか。熱と恐怖で体がガタガタと震えた。

誰もいない部屋で一人で倒れていたら、ホテルの人が様子を見に来てくれた。彼は私の顔を見て一言、
「やばい」
と言った。モンゴル語だったけど絶対にそう言った。

あとの記憶は切れ切れだ。熱が上がり、意識が朦朧とする。入れ替わり立ち替わり、目の前に人があらわれては消えていく。次に目が覚めたときには医者が来ていた。ホテルマンが呼んでくれたらしい。かっぷくのいい女医さんだった。
「薬をのんで」
と言われたが吐き気が強すぎてぜんぜん飲めない。子供用の風邪薬みたいな、甘ったるいピンクの液体で、顔に近づけただけでもウッとくる。

朝だか夜だか分からない頃、また女医さんが来た。
「君はひどい脱水状態だ。入院したほうがいい」
医者の言葉をガイドさんが通訳してくれた。
「嫌です。入院は勘弁してください!」
私は断固拒否した。大変申し訳ないけど1997年のモンゴルの医療を信用することはできなかったのだ。そして朦朧としながらもインドで友人が倒れたときのことを思い出した。
「注射を射ってください」
必死に頼んだ。
「お願いだから抗生剤をください!」
医者は希望どおり注射を一本ぶすっと射ってくれた。助かったと思ったが、そのあとも一晩、苦しんだ。

ピンク色の飲み薬はやたらと甘い砂糖水のようだった。添乗員さんがスプーンで飲ませてくれようとしたが飲むことは難しかった。
それならと、私はよろめきながらスーツケースを開け、日本から持ってきた清涼飲料水をとりだした。ポカリスエット。命の水である。これなら脱水に効くはずだ。薬は飲めなかったけどポカリはちょっとだけ飲めた。

つらくて心細くて眠ることもできなかったその夜、日本語が聞きたくてテレビをつけるとNHKが映った。歌番組で、一路真輝がきれいな声でうたっていた。宝塚歌劇団を退団したばかりの一路真輝。『サマルカンドの赤いばら』にも出演していた一路真輝。子供の頃からずーっと聴いてきた歌声だ。言葉の通じない国で、倒れて、心細くて、どうしようもない時、モンゴルのテレビ画面に一路真輝が現れて歌っている。奇跡だと思った。
「負けないで、頑張って、治そう」
美しい歌を聴きながらメソメソと泣いた。

注射が効いたのかポカリが効いたのか、それとも一路真輝の歌声が効いたのか。やがて嘔吐の間隔が少しずつ開いてきた。5分が15分になり、30分になり、1時間も吐かないで耐えられたときは嬉しかった。やがて朝がきて、私はなんとか生きのびることができた。とはいえ、しばらくは起き上がることもできず、そのあとも数日間はホテルで寝込むしかなかったが。

地獄みたいなツアー

添乗員さんやガイドさんはもちろん、ツアーの人たちやホテルの人たちはとてもよくしてもらった。ツアー仲間の人たちは梅干しや卵スープを分けてくれた。

私がホテルで倒れている数日間も他の人たちはツアーを続けていた。ツアーの目玉だったはずの『遊牧民のお家にホームステイ』だ。

でもみんな、帰ってくると口々にこう言ったのだ。
「あんたはラッキーだったよ! 私も向こうで下痢になったの」
「私もよ」
「僕もです」
「みんな多かれ少なかれお腹こわしてたわ」
「私なんか、あなたに負けないほどぶっ倒れたのよ。吐き気がとまらなくて」
「それもホームステイ中によ」
「大草原よ」
「トイレなんかないわよ」
「トイレットペーパーもないわよ」
「これぞ地獄絵図よ」
「本当につらかった」
「医者もいないし」
「薬もないし」
「死ぬかと思った」
「あなたはウランバートル(首都)で倒れたから運がよかったのよ!」
「ちゃんとしたベッドも水洗トイレもあるところで寝込むことができたんだから」

驚くべきことに、ツアー客のほぼ全員がお腹をこわし、半数以上が草原でぶっ倒れるという地獄の様相を呈していた。初っぱなに倒れた私はとってもラッキーだったのである。
その旅行会社は、翌年つぶれた。

それから3年後、モンゴル人留学生を我が家でしばらく預かったことがあった。私がモンゴル旅行中に食あたりに倒れた話をするとその子は
「私もよ」
さらっと言われた。
「私も食あたりになるよ」
モンゴル人なのにモンゴルで食あたりするの?
「するよ。日本からモンゴルに帰ると絶対におなか壊すよ。2、3日は寝込むかなあ。他の人もみんなそうだよ」
馬乳酒に当たるとかいう以前に空気の問題じゃないかな、と彼女は言った。

モンゴルはいつかリベンジしたいと思っているが、怖くてまだ行けていない。それどころかしばらくは小籠包や肉まんが食べられなくなった。モンゴルでよく出てきた「ボウズ」という料理によく似ているため、肉まんを見ただけでトラウマが蘇っちゃうせいだ。おいしい肉まんを再び食べられるようになるには何年もかかった。


5. タイ 初めての自由旅行

1997年 タイ

自力の旅を目指して

エジプト、インド、そしてトルコ。3回の旅で私はほんの少しだけ強くなった気がした。ひのきの棒とぬののふくで旅だった勇者が「かわのよろい」をゲットした程度に。

レベルアップした私はついに自由旅行をしようと決意した。パックツアーではなくガイドさんも雇わず、すべて自力で行く旅だ!
「R子、一緒に行かない? お金は私が出すから!」
まあ、アカンタレなところは変わっていない。妹に頼る気満々なくせに「すべて自力の旅」もあったものだ。

R子はホイホイついてきてた。行き先はタイ。微笑みの国タイランドだ。飛行機とホテルだけは予約したが、あとは出たとこまかせに決めた。出発の前の晩は緊張して眠れなかった。ガイドさんがいないということは、もしものとき誰にも頼れないということだ。

まだインターネットもない時代。旅の情報はガイドブックだけである。私は『地球の歩き方』を暗記するほど読み込んでいた。観光地についてはもちろんのこと、バスの乗り方、大使館の場所、日本語の通じる病院の名前、買い物のときに気をつけるべきこと。タイについての知識を得ようと必死だった。

ガイドブックの後ろには必ず『犯罪に注意』というページがある。宝石詐欺や睡眠薬強盗、スリなどの手口が事細かに掲載されている。そのページを熟読するうちに
「もしも強盗に遭ったら?」
ついつい考えてしまった。
「もしも貴重品を盗まれたら? ケガをしたら? 言葉も通じないのにどうなっちゃうんだろう?」
ガイドブックを読めば読むほど悪い想像ばかりがどんどんふくらんでいく。不安がふくらんでいく。眠れるわけがなかった。隣でR子はグーグーと熟睡していた。こいつはやっぱり大物だと思った。

バンコクの暗い路地で…

自由旅行において最初の難関は「ホテルにたどり着く」ことだ。空港からホテルまでどうやって行くのか?

私たちはガイドブックに書いてあったとおりにバスを探し、無事、ホテルがあるはずのプラトゥナームに降り立った。
降り立ったが。
「……ここはどこだろう」
ここはプラトゥナームだ。それはわかっている。だがプラトゥナームのどこなのだろう。ホテルはどっちにあるのだろう。バスを降りたとたんにもう迷子である。

イスタンブールのときと同じように人に尋ねて歩いた。ホテルの名前を繰り返し、あっちだ、こっちだ、と教えられて行った。そのうちに
「どこに行くの?」
声をかけてきた人がいる。英語だった。振り向くと、若いお兄ちゃんが立っていた。
「僕はフィリピン人だけどタイ語がわかるから案内してあげるよ」
ホテルの名前を告げ地図を見せると
「わかった。ついておいで」
スタスタ歩き出した。R子もスタスタと後をついていく。考える間もなかった。
「えっと、えっと、あの!」
私はあわてて二人の後を追った。

プラトゥナームは市場もあるにぎやかな街だ。大通りには露店がたちならび買い物客でごった返している。もうとっくに日は暮れているのに街明かりで昼間のようだ。そんな雑踏のなかへ、ちょっとガラの悪そうなお兄ちゃんとR子はどんどん踏み込んでいく。
「待ってよR子!」
知らない人にはついて行っちゃダメって昔から言われているでしょう? もしあの人が悪いヤツだったら? どこに連れていかれるかわからないよ。
そう伝えたかったけれどお兄ちゃんに聞こえてしまいそうで言えなかった。

やがてお兄ちゃんは角を曲がった。横断歩道を渡り、にぎやかな大通りから脇道へそれる。そこはもう露店もない。買い物客もない。ゴミだらけの路地がまばらな街灯に照らされているだけだ。私はますます不安になった。
「さっきのおじさんは違う道を教えてくれたよ」
「大丈夫だって」
R子は落ち着いていた。これっぽっちも疑っていないらしい。豪胆なのかバカなのか。多分、両方だろう。

私の不安を感じ取ったのか、お兄ちゃんは陽気に話を始めた。
「君たちはいいホテルに泊まってるんだね。僕は友人の紹介で200バーツ(約600円)の安宿だよ」
……わかったぞ。こいつはきっと安宿の仲介人なんだ。目指すホテルとはぜんぜん別の宿に案内して仲介料をとろうという魂胆に違いない!

角を曲がると街灯が1本もなくなった。突如として暗い、暗い、闇だまりのような路地が広がっていた。
私は一歩も動けなくなってしまった。さしものR子も足を止めた。
「どうしたの?」
お兄ちゃんは少し先で立ち止まり、闇の中からにこやかに微笑みかけている。いかにも無邪気で穏やかな草食系の笑顔。だが私は知っている。明るい大通りを歩いているときにチラリと見えたのだ。薄汚れたTシャツの胸もとにのぞく入れ墨を。小さな緑色の入れ墨で、ほとんど線のように細い、たぶん蛇だと思う。
東南アジアの人々にとってタトゥーはごく普通のことだがそんなことは知らなかった。当時、私の住む田舎町で入れ墨といえば間違いなくヤクザの印であった。

このお兄ちゃんは彫り物のあるヤクザ、すなわち悪者であると決定した。
当人も私の決定をなんとなく感じとったらしい。
「大丈夫だよ。ここを通り過ぎたらすぐだから。この右側。何も心配はない。」
信用しろといわれても無理である。今やR子までが疑心暗鬼モードになっている。私はこの暗がりに足を踏み入れたら死ぬとまで思っていた。

「困ったなあ」
お兄ちゃんは途方にくれ、
「自分が信用できないのなら」
と、通りすがりのサラリーマンに相談をもちかけた。
「トゥクトゥク(三輪タクシー)に乗せればいいんじゃないか」
サラリーマンのアドバイスに従い、すぐにトゥクトゥクが呼ばれた。私たちが乗り込むと
「大丈夫だから。すぐそこだから。40バーツ払ってね。それ以上は絶対に出したらダメだよ」
と教えてくれた。うなずく間もなくトゥクトゥクは風のように走り出し、お兄ちゃんは闇の中に取り残されたまま遠く小さく見えなくなった。
「いい人だったんだ…」
トゥクトゥクはちゃんとホテルにつれていってくれた。

私達は心底ホッとしながらも、心の中では親切なお兄ちゃんのことが忘れられずにいた。実は今もまだ引っかかっている。申し訳ないことをしたと。もっと信じればよかったと。ちゃんとお礼を言えなくてごめんなさい。
私たちは子供の頃から
「知らない人についていってはいけません」
と言い聞かされて育った。だが旅に出れば知ってる人なんて誰もいない。そして、たとえ貧しげであっても、蛇の入れ墨があっても、いい人たちはいるのだ。

晩ごはん、どうする?

ホテルにたどり着くと、次なる問題が待ち構えていた。晩ごはんである。すっかりお腹がぺこぺこだったが、晩ごはんをどこで食べるかで、私とR子は揉めることになった。

R子の主張はこうだ。
「ホテルの外に出て食べるもの買おうよ。屋台がいっぱいあったから、きっとおいしいよ」
「冗談じゃない!」
私は震えあがった。もうとっぷり日が暮れている。さっき真っ暗な路地で怖い思いをしたのをもう忘れたのか!
「大丈夫だって」
R子は鷹揚に構えている。なにを根拠に大丈夫なのだろうか。
「夜に外に出るなんて危なすぎる。絶対にイヤだ」
私はふてくされてベッドに寝っ転がった。夜の町には犯罪者がウヨウヨいるんだぞ。夜に外出するなんて自殺行為だ。

だが結局は空腹に負けた。ホテルのレストランは高すぎたし、R子はしつこく外へ出ようと誘ってくる。それでとうとう、ホテルを出てすぐの屋台で買うことにしたのだ。

夜の街は思いがけず明るかった。屋台がずらりと並び、お祭りのようににぎやかだ。ウキウキしながらたくさん食べ物を買い込んで部屋に戻った。何を食べたかは覚えていないが、おいしかったことだけはたしかだ。
「行ってよかった」
と思わずつぶやいたら、
「ね、ぜんぜん大丈夫でしょ!」
R子が勝ち誇った。

虫を食らう

豪胆なR子と一緒だから、それともやっぱり微笑みの国だからか、バンコクでは危ないめに遭うことはなかった。一度だけ宝石詐欺に遭いかけたけれど
「これは詐欺だ!」
と気づいて逃げることができた。『犯罪に注意』ページに読みふけり、さまざまな詐欺の手口を研究しシミュレーションを重ねていたおかげである。

私たちは一週間をかけてバンコクからアユタヤ、ピサヌローク、スコータイとめぐった。たくさんの遺跡を観て、たくさんの善良な人々に出会った。タイの人たちは旅慣れない私たちにとても優しくしてくれた。ターミナルでうろうろしていると必ず誰かがバスの番号を教えてくれたし、列車に乗れば「そろそろ着くよ」と隣の人が教えてくれた。あの人たちがいなければ私はずっと泣きべそをかいていただろう。微笑みの国タイは旅人に優しい国だったから、私もずっと笑顔でいられた。

ひとつ、忘れられない出来事がある。アユタヤからピサヌロークへ向かう汽車でのことだ。

四人がけの座席が向かい合う車内で、私たちは子連れのファミリーに囲まれていた。寡黙なお父さん、がっしりしたお兄さん、頼もしいお母さん、四人の子どもたち。子どもたちは女の子ばかりでキャアキャアと楽しそうに遊んでいた。

汽車は朝8時に出発したが、到着は昼過ぎの予定だった。それくらいなら大丈夫だろうと高をくくっていたが、昼になるとやっぱりお腹がすいてきた。お菓子でも持ってくればよかったと後悔した。

隣のファミリーはお弁当を広げはじめた。タッパーに入れたごはんやお惣菜の他、車内販売の売り子からも食べ物を買っている。タイの鉄道にはしょっちゅう物売りがやってくる。ファミリーはまず茹でトウモロコシを買った。一人一本ずつ。私とR子はそれを「おいしそうだなあ」と眺めていた。私も買えばよかったかな。次に売り子が来たら買ってみようか。

やがて次の売り子が来た。茹でトウモロコシではない。小さくて茶色い
「げっ……!」
思わず言葉を飲み込んだ。
売り子が差し出したのはなんと、虫だった。
タガメみたいなゴキブリみたいな、姿そのままの唐揚げ! 足も触覚もそろってるよ!
フリーズしている私をよそに、R子は即座にこう言った。
「おいしそう!」
ハタチそこそこの若い娘が生まれて初めてゲテモノスナックを目にして言う言葉だろうか。R子はどこまで逞しいのであろうか。本当に私と血がつながっているのだろうか。帰国したら母を問い詰めてみようと思った。

いろいろ圧倒されていると、隣のファミリーの母親が
「食べてみる?」
と一つ差し出してくるではないか。ファミリーは一袋買い込んだらしく、小さな子どもまでみんな美味しそうにポリポリとかじっている……虫を。
「いやいやいや遠慮します!」
思わず手を振ると、寡黙なお父さんまでもが
「そう言わずに食ってみろ」
と差し出してくるではないか。
「わーい、いただきまーす!」
友達からポテチが回ってきたみたいなノリで虫を受け取り口に入れるR子。がぶりと一口かじって
「おいしい!」
素人くさい食レポをやってのけた。
「内蔵は苦いけど、ほかはおいしいよ」
ファミリーはどっと笑った。
「よし、次はおまえだ」
父親が私に虫を差し出す。

これはもう逃れられない。
引きつった笑みを浮かべつつ、器から一匹つまみ出す。心の中で懸命に自分を騙そうとしてみた。
「これは虫じゃない! ただの唐揚げだ! からあげクンだ!」
いや虫である。
どう見ても虫である。
真っ黒の小さな目と縮こまった六本足がリアルに虫である。足に白黒のしま模様が入っているところまで鮮明な虫の死骸である。

いつのまにかファミリー全員が私たちに注目していた。ヘッドホンで音楽を聞いているお兄さんも横目で私を見ているし、小さな子どもたちは目をキラキラと輝かせて外国人が虫を食うのを待っている。母親はいたずらっぽい笑顔を浮かべ、寡黙な父親は真面目くさった顔で私の反応を見ている。

その人たちの顔を見ると、不思議なことに
「どんな味なんだろう?」
と興味がでてきた。虫なんてすっごく嫌なのに、絶対に食べたくないはずなのに。それを上回るわくわくした気持ちが湧きあがってきたのだ。小さな子どもまで食べてるんだから、そんなにまずいはずがない。

ゴキブリだかタガメだかゲンゴロウだか知らないが、唐揚げしたそいつをつまみ、頭からガブっといった。
「あら、おいしい!」
意外だった。カラリと上がった殻は香ばしく、中身はソフトで、甘いのだ。R子のいったとおり内蔵は黒くて苦くてまずかったけど、それ以外はほぼ「海老の頭」を食べているようなものだった。私もR子もいただいた1匹をぺろりと平げた。
「ね、おいしいでしょう」
母親が微笑みかけ、子供たちはキャアキャアと騒ぎ、父親は満足げにうなずいた。

そのあとも、お弁当の中から豚の生姜焼きやもち米などいろいろ分けてもらって、私たちはすっかりファミリーと仲良くなった。当然ながらファミリーはタイ語だし私たちは日本語だった。双方とも英語なんか話せなかったから。それでも、言葉なんかわからなくても、十分に楽しい時間を過ごすことができた。

生まれて初めて昆虫食を見たとき「おいしそう」と言ってのけたタフな妹R子は、その数年後に国際結婚し、香港や台湾を経て現在はオーストラリアで子供を生み育てている。珍しい食材をみるとチャレンジしたくなる性格は変っておらず

「市場で熱帯魚をみつけたから煮魚にした! 激マズだった!」

とか言っている。そして私は何度もタイを旅したが、私一人だと虫を食べる気はぜんぜん起こらない。


4.トルコ 私はこうして迷子になった

1996年 姉妹旅行はじめました

 長男長女よりも次男次女のほうがしっかり者だ、というのはよくある話。我が家も例にもれない。泣き虫でアカンタレな私に比べ、二つ年下の妹・R子はしっかりしている……というより、強い。ものすごく強い。ケンカをしたら必ず妹が勝つ。私はいつも泣かされてばかり。
 強い妹というのは、ちょっと怖いが頼りになる。子供部屋にミツバチが迷いこんできたときなんか
「おねえちゃん、だいじょうぶだよ、今やっつけるからね!」
 と、まだ幼稚園児だったR子が立ち向かってくれたものだ。
 成人してもまだアカンタレで泣き虫な私が
「妹と一緒に旅行にいきたい」
 と思ったのは、妹が強くて頼りになるからである。

 姉妹で初めて旅行したのはトルコだった。アンカラ、カッパドキア、エフェソスなどをまわる一週間のツアー。メンバーにめぐまれたツアーで、優しいおじさんおばさんと仲良しになった。素敵なガイドさんとも巡り会えた。幸せな旅行だった。

迷子、始めました

 ツアーの最終日、イスタンブールでフリータイムがあった。フリータイムはガイドさんに張り付いているわけにはいかない。仲良しのおじさんおばさんとも離れた。自分の足で歩かなくちゃいけない。はっきりいって心細い。だいぶ心細い。一人だったら泣くかもしれない。
「でもR子がいるから大丈夫だろう」
 なんて思っていた。それは間違っていなかった。
 数時間のフリータイムはとても楽しく過ごすことができた。
 ここでも人に恵まれた。たまたま知り合った日本人旅行者がトルコに詳しい人で、鯖サンドを食べに連れていってくれたり、ツアーではあまり行かないようなスポットを案内してくれたりしたのだ。

 帰りは駅まで連れていってくれ、地下鉄の切符まで買ってくれた。ホテルは駅のすぐそばだったから、これならさすがに迷わないだろうと思われた。
「それじゃあ、気をつけてね」
 旅慣れた日本人とお別れして私とR子は地下鉄に乗り込んだ。
「いい人に会えてラッキーだったね」
 私たちは楽しい一日を振り返りながらおしゃべりしながら発車を待った。
 待った。
 待った。
 待っても待っても発車しない。
 二十分たち、三十分がたった。
「どうしたのかな?」
 周囲もざわつき始めていた。都会の電車がこんなにも動かないなんておかしい。やがてアナウンスが放送された。当然トルコ語のアナウンスである。英語はなかった(あってもどうせわからないけど)。
 私たちにはアナウンスの内容はさっぱりわからなかったが、周囲からため息があがり、乗客はみんなゾロゾロと車両を出ていった。それだけでも予想はついた。やがて駅員さんが回ってきて
「この電車、当分は動かないよ」
 と教えてくれた。

 さあ困ったことになった。
 その日はツアー最終日。フリータイムが終わればバスに乗って空港へ向かい、日本に帰るのだ。ガイドさんは何度も念押ししていた。
「バスは4時に出ます。4時までには必ず帰ってきてください。もし間に合わなければ置いていきますからね!」

 地下鉄の駅に着いたのは午後3時。十分余裕があるはずだった。なのに待てどくらせど電車が動かず、気がつけばもう3時半になっていた。
「やばい」
 妹はつぶやいた。
「時間がない!」
 あと三十分で待ち合わせの時間だ。もし間に合わなければ置いて行かれる。私たち、日本に帰れない! なんというゾッとする話だろうか。ちょっと泣きたい気持ちだったが、のんきに泣いてる場合ではない。なんとしてでも三十分でホテルに戻らなくてはならない。
「どうしよう?」
 電車がダメならバスはどうだろうか。たしかホテルの前の道にはバス停があった。だがどのバスに乗れば帰れるかなんてさっぱり分からない。
 タクシーは? タクシーなら確実に連れて帰ってもらえる! そう思って必死にタクシーを拾おうとしたが、地下鉄が停まった上に雨が降っていたこともあり、たくさんの人がタクシーを奪い合っていた。とてもじゃないが捕まえられない。
「走ろう!」

魔法の呪文はペラ・パラス

 地図によれば2キロの距離。当時、私たちは二十代前半、体力もある。走ればなんとかなるかもしれない。
 私たちはイスタンブールの街を全力疾走しはじめた。石畳の道を駆け抜け、ガラタ塔を横目にとおりすぎた。夕日の差すイスタンブールは美しかった。
 問題は道がわからないことだった。平たくいえば迷子である。地図があっても今自分がどこにいるかわからない。そのへんの人に道をたずねようにも『ここはどこですか?』と尋ねるのは案外、難しい。トルコではあまり英語が通じないのだ。そんなときのために有能なガイドさんは魔法の呪文を教えてくれていた。
「ペラ・パラス!」
 アガサ・クリスティーが泊まったことで有名なホテルの名前だ。私たちが泊まっているのは隣の小さなホテルだったけど。
「ペラ・パラス!」
 と言えばみんな
「ああ、ホテル・ペラ・パラスに行きたいのか。あっちだよ」
 と、だいたいの方角を教えてくれる。教えられた方向へ走り、分かれ道に出れば次の人に「ペラ・パラス!」と唱える。また走っては道をきく。
 イスタンブールの新市街は上り坂が多い。海から山へのぼる急坂だ。いくら若くて元気だとはいえ、全速力で走りつづけるとキツかった。ぜいぜいと息をきらせながら必死で走りつづけた。

 最後に道を尋ねたのは夫婦だった。私たち姉妹は同時に
「ペラ・パラス!」
 と呪文を叫んだ。すると旦那さんは私に、奥さんはR子に、それぞれ別々に道を教えてくれたのだ。
 旦那さんは英語だった。当時のトルコで英語を話せる人は珍しかった。ありがたかったが、残念なことに私は英語がわからなかった。
「あっち」
 と言っているのではなく込み入った道筋を教えてくれているらしいのだが、細かい言葉が聞き取れない。
 困ったなと横目で見ると奥さんはトルコ語だった。同じように込み入った道のりを教えてくれているらしく、トルコ語で滔々と話している。R子は神妙な顔できいているがトルコ語だから理解できるはずがない。どうしよう。と思っていたら
「わかった!」
 と頼もしい妹は言った。
「この道をまっすぐ行って3つめの信号を左、それから右、トンネルをくぐってしばらく歩けばホテルだって!」
……妹よ、どうしてトルコ語がわかるのだ?
「なんとなく!」
 人間、なんとなくで会話ができるのだと知った。

間に合った!

 私たちはお礼を言ってまた走りだした。まっすぐ行って3つめの信号を左、それから右。妹の指示に従うと本当にトンネルがあった。見覚えがある。トンネルをくぐってしばらく行くと、
「ホテルだーーー!」
 窓ガラス越しに仲良しのおばさんの顔が見えた。
「間に合ったーー!」
 4時3分前だった。私たちは日本へ帰れるのだ。
 ガイドさんがすっとんできて、大声で叱りつけた。
「絶対に遅れないようにって言ったでしょう! みんなどんなに心配したことか。皆さんに謝りなさい」
 私たちは客なのに、ガイドさんは容赦なく叱りつけた。
「…でも無事で本当によかった。本当によかった」
 まるでお父さんに叱られてるみたいだった。心配かけてごめんなさい。
 このガイドさんが素晴らしい人だったので忘れがたく、後年、猫をもらったときこの人の名前をもらってつけた。アジャリという。

 さて、無事に戻った私たちはすぐにバスに乗らなくちゃいけない。預けていた荷物をとりにフロント裏へ行った。荷物係のホテルマンは私たちが間に合ったことを喜んでくれ、ついでに、まだ息が切れている私に
「ドキドキ?」
 と言いながらどさくさに紛れて胸を触ってきた。海外初のセクハラであった。


3.初めてのインド 『デイアディア』を覚える

1995年 年上の友達と旅にでる

 エジプトから帰国すると世界はまた灰色にとざされてしまった。大学へ行っても日々の生活はやっぱりつまらないままだった。
 それでも以前とは確実に違っていたことがある。アカンタレの泣き虫には変わりないが、私は以前は知らなかったことを
「知っている」
 からだ。この世界には楽しいこともあるのだと。砂漠にそびえるピラミッドやふごふご鳴くラクダや、物語のように刺激的な世界が本当にあるのだと。遠い世界のことなんて日々の生活には関係ないが、それを知っているのと知らないのとで私の中では大違いだった。
 私は知ってしまったのだ。旅の魅力を。

 二度目の旅行は友人と一緒だった。
「インドに行こう。私、インドって行ってみたいねん。なんかスゴイらしいやん?」
 年上の友人がそうい言うのでインドに行くことになった。

タージ・マハル

下痢の洗礼

 人生二度目の海外でインドというのはヘタレな私には厳しい気がしたが、ガイドさんに張り付いていれば大丈夫だということは前回のエジプトで学んでいた。それに今回は一人じゃない。二人なのだ。友人は私より7才ほど年上の社会人。頼れるお姉さんが一緒だから怖くない!

 そう思っていたのだが。

 4日目のジャイプールで2人そろってお腹をこわした。2人そろって下痢止めをのみながら飛行機に乗り、次の町へと移動した。寝たら治るだろうと高をくくっていたがどんどん悪くなる。
「正露丸の効かない下痢ってあるんだねえ」
 と笑っていられたのも束の間。
 翌朝、友人が倒れた。
「ごめん、私アカンみたい」
 えげつない下痢だった。
「ほんまアカンわ、もう駄目」

 『頼れる大人』が倒れてしまって私は泡を食った。
 どうしよう! どうしよう!
 助けを呼ばなければ!
 オタオタしながら私は走った。友人を助けなくてはと焦っていた。階段を駆け下りてロビーに飛び込んだ。白人の宿泊客がチェックアウトを済ませたところでフロントは空いていた。
 が、そこで足が止まった。
『友達が病気です、お医者さんを呼んでください』って英語でどう言えばいいんだろう?
 英語が出てこなかったのだ。中学高校と6年間も英語を学習していたわりにはお粗末な話である。勉強をサボっていたツケだ。エジプトでもインドでも日本語ガイドつきのパックツアーだから英語なんて話さなくてもよかったが、今は違う。ガイドさんも年上の友人もいない。私ひとりでフロントに立ち向かうしかない。
 ヘタレな私はヘタレらしく叫んだ。
「へるぷみー!」
 たった一言で用は足りた。
「どくたー・ぷりーず!」
 お粗末な英語よりも切羽詰まった表情がすべてを語っていたのだろう。フロントマンは冷静にうなずき
「わかりました。すぐにドクターを呼びます。あなたはお友達のそばにいてあげてください」
 と言ってくれた。

 やがて、がっしりした女医さんが部屋に来てくれた。腹痛でのたうちまわる友人と私を見比べ、
「どうされたのですか?病状は?」
 私に尋ねた。またしても英語の壁だ。聞かれていることはわかるが答えようがない。英語で「下痢」をどう言うのか知らなかった。
 しかたがないのでこう言った。
「といれっと! といれっと! といれっと! めにー・たいむず!」
「そう。下痢なのね」
 通じてびっくりした。英語の下手くそな日本人観光客に慣れているのだろう。

 先生は友人のお尻にぶすっと一本、太い注射をぶっ刺した。抗生剤だろう。それから薬を取り出し身振り手振りを加えて説明してくれた。
「もしも吐いたらこの薬を飲むこと。吐くってわかる?『ウゲーッ!』よ。それからこっちは明日の朝のぶん。わかるわね」
 わかった。覚えた。下痢は『diarrhea』で、嘔吐するは『vomit』だ!

 後々、この2つの単語には何度も何度何度も! お世話、当時の私には想像すらできなかった。


2.エジプト 初めての世界へ

18才、とりあえず泣いてた

 私はなにしろアカンタレである。どれくらいアカンタレかというと、18にもなって一人ではバスにも乗れないくらい。バスの両替機の使い方がわからなからずに泣きそうになって、乗るのをやめたのだ。以来、いつも妹に付き添ってもらっていた(妹のほうが私の百倍も豪胆だ)。

 そんなヘタレな私にとってはJRで20分の宝塚駅から向こうはまったく未知の世界!だというのに、いきなり東京へ行く。しかもその後はエジプトへ行くというのだから恐ろしい。猛烈にドキドキした! 怖かった。怖くて怖くてたまらなかった。伊丹空港で家族と別れたあとは頭が真っ白になって記憶にない。メモ魔の私が日記に何も書いていないのだから、たぶんずっと泣いていたのだと思う。飛行機でもシートベルトの締め方がわからなくてベソかいてたら、見かねた隣席のサラリーマンに教えてくれた。だいぶ禿げ上がってたけど王子様に見えた。

 幸いにも、成田空港に着くとスムーズにツアーの人たちと落ち合うことがえきた。添乗員さんが優しく声をかけてくれたときはホッとしてまた泣きそうになった。「この人のそばにいれば死なない」と思い、ピッタリ貼り付くことを決意した。

生まれて初めて人生は楽しいと思った

 エジプト旅行はカルチャーショックの連続だった。巨大なピラミッドをポカンと見上げ、サハラ砂漠の砂を眺めては「これがハッサンの駆け抜けた砂漠か」と勝手に想像をふくらませ(サマルカンドは中央アジアだからサハラ砂漠ではない)、美しいモスクの天井に感動した。控えめにいってその1週間は天国にいるみたいだった。だって、まるで現実とは思えない世界が広がっていたのだから。物語の中に迷い込んだ気分だった。

一番驚いたのはエジプトが暑いことだった! 三月のエジプトなんだから暑くて当たり前。だけど私はバカなので、日本ではまだ雪が降ってるのにエジプトは真夏、なんて信じられなかったのだ。夏服を持っていくべきか、それとも冬服か、と悩んでいたら
「じゃあ両方持っていったら?」
 と母がいうので夏服と冬服の両方をスーツケースに詰めた。そしてエジプトに着いて飛行機を降りて1秒で後悔した。
「やっぱり冬服いらんかった!」
 愕然とした。
「地球の裏側はほんまに夏だった!」

 こうなると冬服が邪魔でしようがない。
 初めての海外旅行はアホみたいに荷物が多かった。旅行経験のまったくない私は旅先で洗濯するという発想がなかった。旅行中は洗濯はできないと思いこんで日数分の着替えを持っていったのだ。十日分の着替えを夏冬で二倍、つまり二十日分の衣服をスーツケースに詰め込んでいた。それだけではない。
「服よりも水をたくさん持っていきな、あっちのは汚いから飲んだらダメ」
 と悪い大人から入れ知恵され、2リットルのペットボトルを何本も持ち込んでいた。大量の服に加えて大量のペットボトル。ものすごい重量であった。 

 大量の荷物が仇になったのはルクソールのホテルでだった。それぞれの部屋にロフトがついている高級ホテル。ポーターのお兄ちゃんが、よせばいいのにスーツケースをロフトに運び上げてくれたのだ。階段を持ってあがるとき
「ヘビー!」
 と呻いていたが当然である。私の体重くらいの重さがあるのだから。で、大の男がフウフウ言いながらやっと運び上げてくれたというのに、下ろすときには自分ひとり。持ち上げられるわけがない。
・・・どうしようもないな。
 私は決意を固め、重たいスーツケースを、階段からそっと突き落とした。若気の至りの音がした。

転機

 一週間あまりのパックツアーには観光から食事からぜんぶついていた。何もかもをガイドさんにお任せで私は添乗員さんのそばにピッタリ張り付いていれば安心だった。最初に決めたとおり添乗員さんの半径2メートル以上先へは一度も行かなかったし、ほとんどダニみたいに張り付いていた。

 転機は最終日に訪れた。夕刻、バスがあと少しでホテルへ着くというときにガイドさんがマイクで呼びかけたのだ。
「ここでバスを降りたい方はいますか?」
 何を言っているのだろうと思った。街の真ん中でバスを下りるなんて。

「ここからは一本道です。ホテルまで300メートルくらいでしょうか。ほらもう目の前にホテルが見えているから迷いようがありません。万が一わからなくなっても『ラムセスヒルトン』といえば誰でも教えてくれます。この旅行もこれで終わりです。エジプトの記念にカイロの街を自分の足で歩いて帰りたい方はいらっしゃいますか? 冒険をしてみたい方は?」

 冒険!
 ざわっとした。体中にながれる臆病者の血が湧きたち、全身に鳥肌がたった。でもこの鳥肌は、ずらりと並んだ制服の中に入れと言われたときの鳥肌とは正反対のものだった。武者震いだ。
 自分の足でカイロの街を歩く。
 なんて危険なことだろう。
 そんなことをしたら死ぬ、とそのときは本気で考えていた。外国には悪い人がいっぱいいて、一人で道を歩いたりなんかしたら瞬く間に泥棒か強盗か殺人鬼か強姦魔におそわれるものだと思っていたからだ。たぶん、ツアーの人の多くがそう思っていたんじゃないかな。
「そんな恐ろしいこと!」
 そばにいたおばさんが呟いた。
「降ります!」
 私は手をあげた。
「やめときなさいよ!」
 親切なおばさんが止めてくれたが聞かなかった。全身の血が沸き立っていた。
 ひねくれ者の私の人生は退屈で、色がなく、楽しいことなんて一つもないと思っていた。でもエジプトでは違ったのだ。空は見たことがないほど青く、毎日がわくわくしていた。眠りにつくときは明日がくるのが待ち遠しかったし、朝になれば嬉しくて跳ね起きた。こんなに楽しい毎日は生まれて初めてだったのだ。

 バスを降りたら私は死ぬかもしれない。でもこんな冒険は二度とできないかもしれない。これは「冒険」だ。冒険なんて本の中でしか味わえないと思っていたのに、現実でも冒険できるのだ。こんなに幸せなことはない。死んでも悔いはないとまで思っていた。私はどこまで死ぬ気だったのだろうか。
 それでもやっぱり臆病者だから、初めて飛行機に乗ったときよりもドキドキしていた。座席を立って出入り口に向かうときも緊張で心臓が破裂しそうだった。バスのステップを降りるときは足がガクガクしていた。
 ここから降りれば守ってくれる人はいない。
 この先は自分ひとりでなんとかしなければいけない。
 死ぬかもしれない。
 いや死んでもいい。

 18歳のアカンタレは勇気をふりしぼって最後のステップを降り、カイロの街に降り立った。おそろしい瞬間であった。
「私もいく!」
 背後から声がして女の子が追いかけてきた。母親と来ていた子で、年が近いために仲良くなっていたのだ。私たちは2人で死ぬのだと思った。2人できゃあきゃあ言いながらバスを降りた。


 バスを降りた瞬間に死ぬくらいに思っていたが、カイロの歩道に立っても案外すぐには死ななかった。当然である。
「じゃあ気をつけて。ホテルで待ってまーす」
 ガイドさんの言葉だけを残しバスは去っていった。

 私たちはカイロの喧騒の中に、エジプトの砂埃の中に、広い世界の中にポツンと取り残されてしまった。すでに後悔しまくり心細かったので泣きたかったが年下の友達の前では泣けなかった。
「どうしようか」
 と相棒は言った。どうしようも何も三百メートル歩いてホテルへ向かうだけである。バスを降りたのは10月6日橋のたもと。ナイル川にかかる大きな橋で、渡った先にはホテルがある。たったそれだけのことだ。普通に歩けば5分とかからないだろうに、死ぬ死ぬと思っていた私たちには橋を渡ることがとてつもなく恐ろしく感じられた。

 ナイルの川風になぶられながらしばらく立ち止まっていると
「ハイ、ジャパニーズ!」
 声をかけられた。びくびくした。観光用の馬車が路傍に停まり、御者台ではおじさんが手綱をとっていた。
「馬車に乗らないか?」
 なまりのきつい英語だったが言ってることはわかった。
「どこにいくの?」
 ラムセス・ヒルトン。
「なら馬車で行くといい。さあ乗って乗って!」
 アホな私は助かったと思った。相棒は何か言いたげだったが私は無視した。馬車に乗るという興奮と、誰かに案内してもらえる安堵感が大きかった。
 私たちは御者台にひっぱりあげられた。

 ぱかぽこ、ぱかぽこ、馬車はゆっくり走った。おじさんは上機嫌でよく笑い、馬の名前を教えてくれたり、私たちに手綱をもたせてくれたりした。機嫌がいいのは当たり前だ。カモを捕まえたのだから!
 馬車に乗る前にお金の話はしなかった。タダだと思っていたわけではないが値段交渉などしなかった。降りるときになって「三十ドルだ」とふっかけられた。高い!と思ったが仕方なく払った。ホテルまで生きて帰れたのだから安いものだ。
 これが私の人生最初のボッタクリ経験である。


1.子供時代

 私は学校が嫌いだった。深刻な理由ではなく、ただ学校という団体行動が性に合わなかった。「みんないっしょ」が生理的に受け付けなかった。学生服がずらりと並んでいるのを見ると鳥肌がたっちゃうのだ。
 そのうえ世は校内暴力の時代だった。授業で「わかりません」と答えただけで殴られる。スカートの丈が一センチ長いだけで殴られる。理不尽だと思ったので私は入学してまもなく学校へ行くのを止めた。
 すると男の先生が家まで迎えにきた。
「行きたくない」
 と柱にしがみつく私を力づくて引き剥がして学校へ引きずるように連れていく。
「今日は球技大会だから絶対に出席しろ!」
 球技大会がなぜそんなに大事なのかぜんぜんわからなかった。今でもわからない。

 子供の世界は学校がすべて。学校が嫌いな私の世界は、とほうもなくつまらなかった。だから本ばかり読んでいた。毎日毎日、ありったけの本を読んでいた。現実逃避に必死だったのだ。現実世界に楽しいことなんて無い、と思いこんでいたから。
 小学五年のとき熱をだして学校を休んだ(もしかしたらズル休みだったかもしれない。熱を出すのも下げるのも自由自在だったから)。二段ベッドの上段で小学生向けの雑誌を開いたら『世界の七不思議・謎の遺跡』という特集が組まれていた。わりとオカルト的な記事だったけど、そこに見開き二頁をつかってマチュピチュ遺跡の写真が載っていた。粗いモノクロ写真だったが、天空にそびえる山と遺跡のコントラストは衝撃的だった。
「すごいなあ。見てみたいなあ」
 遠い世界に対する憧れがチラリとよぎったがシャボン玉のように一瞬で消えた。
「どうせ行けないよ、こんなところ」
 私は雑誌を閉じて本の世界に帰っていった。何者も私を傷つけず、邪魔をせず、悩ませず、私というものさえ消してしまう物語の世界へ。

 生きているのか死んでいるのかわからない状態の子供時代、唯一の救いが宝塚歌劇だった。本と同じで現実逃避できる夢の世界だったから。
 宝塚歌劇にハマったきっかけは『サマルカンドの赤いばら』という舞台。砂漠の盗賊ハッサンがサマルカンドのお姫様と恋に落ちるというファンタジーだ。お姫様とか恋とかはどうでもよかったが、砂漠の盗賊ハッサンがとにかくカッコよかった。砂漠に風が吹き、大きな月を背景にハッサンが歌い始める。
「この世は一陣の風まぼろし。だから過ぎし日を思い悩むな」
 ハッサンの歌を聴きながら考えた。
 この砂漠はどこにあるのだろう?
 パンフレットに演出家の大関先生がサマルカンドという街を訪れたことがあると書いてあった。夢の舞台のサマルカンドは実在するのだ! いつか私もサマルカンドに行けるだろうか? チラリよぎった考えをまた一瞬で打ち消した。
 「行けるわけがないよ、そんな所」
 そんなこと考えるだけ無駄だ。

 高校では仲のいい友人ができたが、担任教師が嫌いすぎて毎日吐きそうになっていた。カスみたいな青春であった。
 それでも後悔はしていない。若い頃にもっと勉強しておけばよかった、と言う大人は多いけれど、私はそうは思わない。もしも勉強に力を入れていたら、青春を謳歌するリア充になっていたら、きっと今の私はないだろうから。

 甘ったれでネガティブでどうしようもない私を変えたのは、皮肉にも高校の授業だった。あんなにも嫌いだった学校なのに!
 世界史の講師が変わり者で、授業に関係のない話をたくさんしてくれた。主にアラビアの話だった。エジプトのピラミッドがどんなに大きいか。アラブ人のおっさんがどんな風にお茶をすすめるか。言葉が通じない国への旅行がどんなに大変か。私はその話を聞いてちょっとアラビア世界に興味をもった。
「いいぞー、エジプトは!」
 先生が何度も言うものだから。エジプトへ行きたくなってしまったのだ。

海外へ行こう

 海外へ行くなんて行動力がいりそうに思える。だがこれも「現実逃避の一環」だった。日本の兵庫県の田舎町の家庭からの逃避行。いや、自分自身からの逃避行だったのかもしれない。
 生まれて初めての旅を決意したのは祖母の家にいたときだった。当時、祖母は脳梗塞の後遺症で介護が必要だった。高校卒業を控えた冬のある日、外出する祖父にかわり私は祖母の介助をしていた。昼ごはんを用意したり、祖母のつかったポータブルトイレを片付けたり、部屋の掃除をしたり。 ハタキをかけながらおしゃべりをしていたとき、ふっと思い立った。ふっと……。薄暗い部屋とつみあげられた本の山、窓辺でホコリが舞って日光にきらきら光っていたのをよく覚えている。
「ねえ、おばあちゃん。いいこと考えた」
 私はベッドで横になっている祖母に話しかけた。
「旅行にいこうと思う」
「いいねえ。卒業旅行かい。どこいくの」
「エジプト」
「エジプト? エジプトって、あの、なんていうの、大きな三角の山みたいな?」
「うん、ピラミッド。ピラミッドのあるエジプト。中東の。そこに行こうかなって」
「ほううううううう」
 祖母は目を白黒させていた。それはそうだろう。昭和から平成になって間もないその頃は、海外旅行といえばハワイかグアムが定番だった。エジプトなんか「世界の果て」くらいに思われていた。私もそう思っていたのかもしれない。世界の果てへ行こうと。
 アラビア好きの講師に影響されたこともある。砂漠の盗賊ハッサンが駆け抜けた砂漠というものをこの目で見たいと思っていたことも。だが一番大きな理由は、おもしろくも楽しくもない現実から逃げ出したかったのだ。
 高校を卒業して大学へ行って就職する。このまま大人になっていく。そんなのはつまらない。あまりにも退屈だ。それを忘れたかったのだ。
 突然エジプトへ行きたいといいだした孫にどう返事をしようかと、祖母はしばらく考えていた。大正生まれの祖母にとって、海外、とくにアラビア世界なんて地の果てへ行くのは、しかも女ひとりで行くのは暴挙に違いなかったはずだ。
 大きなため息をついた祖母は、
「それはいいね」
 と言った。
「行っておいで」
 祖母は心の強いひとだった。新しいものが大好きで、挑戦的なひとだった。その血を受け継いでいるのは私の誇りだ。


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