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13. ウズベキスタン(1)

サマルカンドの赤いばら

13才のとき、宝塚歌劇の『サマルカンドの赤いばら』という舞台を観た。かっこいい砂漠の盗賊がでてくる物語で、陰気にひねくれていた中学時代の私をファンタジーの世界に連れて行ってくれた。ファンタジーにぴったりの「サマルカンド」という町は実在するのだとパンフレットに書いてあった。

次にサマルカンドという地名を目にしたのは高校の世界史の授業。
『14世紀後半、中央アジアではティムール王国が栄えました。首都はサマルカンド』
たった一行の記述にわくわくしてしまって、私はノートのすみっこに赤いばらの落書きを描いた。絵が下手すぎてカタツムリにしか見えなかったけれど。

高校卒業後、かっこいい盗賊ハッサンが活躍していた砂漠というものを実際に見てみたいと思った。それが旅行を始めたきっかけだったが、訪れたのはエジプトだった。サマルカンドは旧ソビエト連邦の一部であり、当時は簡単に行ける場所ではなかったのだ。

それでも私はエジプトを皮切りに、インド、トルコ、モンゴル、オーストラリア、メキシコ、ケニア、カンボジア、タイなど旅を重ねた。いくつもの国をめぐり、いろいろな人に会い、いろいろな経験をするうちに、ヘタレで泣き虫の私なりにだんだん度胸がついてきた。

言葉が通じなんくてもなんとかなる。
道に迷ってもなんとかなる。
お腹をこわしてもなんとかなる。

……よし。準備は整った。
サマルカンドに行く準備が。
ソビエトから独立したウズベキスタンを目指したのは『サマルカンドの赤いばら』を観てから15年後のこと。私は28歳になっていた。

とにかく家に連れていかれるウズベキスタン

ウズベキスタンの公用語はウズベク語とロシア語。当時は英語なんていっさい通じないかった。空港の出入国カードでさえロシア語のものしか見つからなかったくらいだ。

観光業者であろうがお店の人であろうが、英語は徹底的に通じなかった。「イエス」も「ノー」も通じない。「オーケー」とか「ホテル」とか、「ミー」とか「ユー」とか、「ワン・ツー・スリー」とか「ハウマッチ?」すら通じない! 私たちがウズベク語やロシア語に親しんでいないのと同じように彼らも英語に親しみがないのだ。
「英語は世界の共通語」
なーんて井の中の蛙もいいところ。この先、英語が通じない国なんて腐るほどあると知ることになる。

それでも、言葉が通じなくてもなんとかなる、ということは私はずいぶん初期に学んでいた。イスタンブールでR子と道に迷ったあのときに。
『地球の歩き方』にはたいてい「現地語会話帳」がついている。挨拶と必要最低限の単語が少し。「こんにちは」とか「安くしてください」とか「トイレはどこですか」とか、ほんの数ページ。それだけあればなんとかなった。それだけあれば、ウズベキスタンの道端で知り合った人々に
「うちに来いよ」
と頻繁に言われ、お宅を拝見させてもらい、ご飯を食べさせてもらい、
「泊まっていけよ」
と言われるのだった。

そう。ウズベク人は嘘みたいにフレンドリーなのだ。
ウズベキスタン初日、首都タシケントのホテルにチェックインをして散歩に出たら、5分でフレンドリーなおじいちゃんに出会い、さらに5分後にはそのおじいちゃんの家に連れて行かれていたくらいだ。有無をいわせない調子で
「わしの家で晩飯を食おう。ほら行くぞ」
とタクシーに乗せられたときには「拉致か!」と思ってドキドキした。だが普通においしいチキンとラグマン(うどん)と玉ねぎとトマトのサラダが出てきただけだった。それからもいろんな町でいろんな人のお世話になった。そのたびに、おいしいカレーだとか蜂蜜とパンだとかチャーハンだとかをごちそうになったが、危ないめに遭うことは一度もなかった。

ギーチェおじいちゃんの食卓

シャハラーおばさんと長距離バス

忘れられない出会いがある。
ウルゲンチからブハラまで420キロをバス移動したときのことだった。ローカルバスはなかなかの年代物でやっとこさ動くという有様。下り坂はかろうじてスピードが出るが平地と上り坂ではカタツムリ同然。他のバスやタクシーや、ロバにまで抜かれていく。そのうえ何度も故障し、砂漠の真ん中で修理をしなくちゃいけなかった。まあ420キロも乗ってバス代が300円程度だから仕方がない。

ローカルバスのせいか、私以外の乗客は全員、地元のおじちゃんおばちゃんだった。外国人がよほど珍しいのだろう。乗り込む前から好奇の視線は感じていた。
「君は日本人か?」
勇気をだした一人が声をかけてきて、そうですと答えると大騒ぎになった。
「日本人だって!」
「おお日本人なのか!」
「日本人日本人日本人!」
なぜか大人気である。
「日本人、つまりあなたは『おしん』なのね!」
……おしん。
ウズベク語に混じってそれだけはハッキリと聞き取れた。大昔のNHKドラマ『おしん』がアジアで流行っていると聞いたことはあったがウズベキスタンにまで進出していたとは知らなかった。しかも『おしん』のおかげで日本人のイメージがむちゃくちゃ良くなっていたとは。おかげでバスの中で私は終始『おしん』と呼ばれることになった。

「おしん! こっちに座りな」
一人のおばちゃんが自分の隣に手招きした。
「あんなオッサンの隣だと危ないよ」
車内に笑いがどっと湧いた。彼女はシャハラーという名前だった。シャハラーは町という意味だからさしずめ「町子さん」か。年は45才で敬虔なイスラム教徒。職業は米屋。町と町とを行き来して米の売り買いしているようだ。

私とシャハラーおばさんは意気投合し、長い道中ずっとおしゃべりしていた。『地球の歩き方』についてる「現地語会話帳」がボロボロになるまでしゃべりつづけた。
「あんたはどこへ行くつもりなの? 私は月曜までシャフリザーブスで米を売っているから遊びにきなさい。ぜひ来なさい。今から来なさい。ブハラは砂漠だ。ニェナーダ(なにも無いところ)だ。シャフリザーブスはヤフシャ(良いところ)だ」
本気でシャハラーおばさんのお世話になろうかとだいぶ迷ったが、どうしても寄りたい町があったので断った。おばさんはとても残念そうにしていた。

「アムダリヤ!」
川にさしかかったとき、シャハラーは興奮して車窓を指さした。砂漠のまっただなかに唐突にあらわれる青い宝石のような大河。なんという深い青だろう。
「アムダリヤ、ボリショーイ」
拝むようにシャハラーはつぶやいた。乾燥した砂漠で暮らす人たちにとって、滔々と流れるアムダリヤ川は偉大で神聖なものに違いなかった。
川面には一隻の小舟が浮かんでいた。乗客たちは身を乗り出すようにして
「船だ船だ」
と騒いでいた。
「おしん、見なさい、あれが舟だよ。珍しいだろ!」
と教えてくれた。ありがたいが日本人的には「そうですね」としか言えない。

アムダリヤ川

シャハラーおばさん

橋を渡るとき検問があった。強面の警官がバスに乗りこんできて、外国人の私はたいそう厳しいチェックを受けた。私が旅したのは2002年、アメリカ同時多発テロの翌年のことだったから、警官がピリピリしているのも無理はない。

恐ろしいことに、この国の警官はめちゃめちゃ評判が悪い。難癖をつけてワイロをむしり取る、へたをすると強盗よりも悪質だと聞いていた。そんな警官に「パスポートを見せろ」といわれて提出したらなかなか返ってこない。待っても待っても返してもらえない。不安が顔に出たのだろう、シャハラーやほかの乗客たちが口々に励ましてくれた。
「大丈夫、レギストラーツェ(滞在登録証明)を調べてるだけだよ」
「きっとそうだよ」
「あいつらは仕事が遅いんだ」
1時間ほど待たされてようやく警官がパスポートを手に戻ってきた。
「おい、おまえ本当に日本人なのか?」
疑われているのだろうか。どうしよう、と思うより早くバス中からたくさんの声があがった。
「日本人だ、日本人だ!」
「おまえは見てわからないのか、この子は『おしん』だよ!」
「おしん!」
「おしん!」
「おーしーん!」
湧き上がった『おしん』コールに気圧されて、若い警官は苦笑いを浮かべた。
「ごめんな。日本人を見るの初めてなんだ。握手してくれるかい」
差し出された手を握った。
バスのみんなが私を守ってくれたのだ。

休んだり停まったりしながらも、ぽんこつバスは雄大な砂漠をのろのろと走りつづける。あこがれの砂漠の盗賊ハッサンが駆け抜けた砂漠。本物の砂漠は広大だった。どこまでもどこまでもどこまでも、なにもない。針のような植物が生えていたり、ヤギ飼いがヤギを追って歩いていたり、たまにネズミのような動物がちろちろと走っていったりするくらいだ。風が吹けば砂紋が波立つ。きれいだ。

やがて日が暮れた。壮大な夕焼け。360度ぐるーっと見渡してもぜんぶ夕焼けだ。砂漠の果てに、地平線の上に銀色の月がのぼっていった。お皿のように丸いきれいな月だった。
「オイモモ」
シャハラーが月を指さして教えてくれた。
「オイモモ」
私はひとつウズベク語を覚えた。

長い道中には何度か休憩があった。ドライブインにはトイレがあったりなかったりした。砂漠のまんなかでいっせいにバスを降りるから何かと思ったら、
「おしん、こっちへおいで」
シャハラーに引っ張られた。女性は全員、バスの左側に集まっている。男性は反対側だ。男女別れて…トイレタイムというわけだ。なんて壮大なトイレだろうと思った。月の光に照らされる砂漠で、みんな一列にならんでトイレをする。地平線をながめながらおしっこだなんて、開放感がありすぎて感動した。人間よ自然に帰れ。

夕ご飯の時間になると小さな町のレストランに立ち寄った。オアシスの湧き水で手洗った。メニューは1つしかないようで、お茶と目玉焼きとナンが出てきた。
「おしん、スプーンはいるか?」
気を利かせてもらったけど、私は
「シャハラーがいらないなら、いらない」
と答えた。この答えはみんなに喜ばれた。誰もスプーンなんて気取ったものは使っていなかったから。私はみんなの真似をして、ナンで目玉焼きをすくって食べた。とてもおいしかった。

ガイドブックによればバスは5~6時間でブハラに着くはずだった。だが私の乗ったローカルバスはその倍、なんと10時間もかけて砂漠を走った。気がつけばすっかり夜である。日が暮れると砂漠の気温は一気に下がる。ぽんこつバスに暖房なんてないからむちゃくちゃ冷えた。私は1枚のジャケットをシャハラーと分け合ってかぶった。

真夜中、ぐっすり寝入っているところを運転手に叩き起こされた。
「着いたぞ、ブハラだ、日本人!」
ここで降りなければいけなかった。お世話になった人たちに別れの挨拶をしたいところだったが、みんな眠っていたし、私も寝ぼけていた。シャハラーにだけ小声でバイバイをいって、悪いけどジャケットを返してもらってバスを降りた。……シャハラー、寒かっただろうな。

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