1997年 大草原を見たくて
ワイルダー著『大草原の小さな家』を読んだとき「大草原ってどんなだろう」と思った。私の住む田舎町には、田んぼはあっても草原なんてなかった。大草原と聞いて思い浮かぶのはゴルフ場くらいだ。想像力にとぼしい私の頭のなかで、『大草原の小さな家』の登場人物たちはゴルフ場に家を建てて住んでいたのである。
これではいけないと思った。
本物の大草原をみにいこう。
草原といえばモンゴルである。
モンゴルの大草原を馬で走ろう!
ということでモンゴルへ行くことになった。なぜアメリカではなかったのか。
モンゴルへはツアーに参加した。『遊牧民のお家にホームステイ!』が目玉のツアー。またしても添乗員さんやガイドさんに貼り付いていれば楽ちんである。にもかかわらずまさかの事態が起こり、死にかけることになった。
参加者20人ほどのツアーだった。場所が場所だからか、一人参加も珍しくない小さなツアー。
モンゴルで初めてみたものは月だった。ウランバートルに到着したのは朝の3時半。空港からホテルまでの道のりは炭を流したような景色に時折背の低い信号がとぶくらい。ホテルに着いてやれやれと荷物を下ろしたとき、窓から月が見えたのだ。
かがやく真珠色、外側はブルー。見たことがないほどきれいな月だった。ぼんやり見とれていたら、夜があけた。
翌朝、プロペラ機で草原へ向かう。モンゴルでは草原こそが観光地だ。ホテルの代わりにゲルが立ち並ぶツーリストキャンプがある。ゲルとは遊牧民の住むテントだが、つくりは観光客向けでも代わらない。ベッドが赤で統一されているなど案外きれいだし、お湯の入ったポットまであった。
「あ、お茶いれて飲もう」
と同室の女の子がポットを開けたが、
「・・・毛がいっぱい浮いてる」
と言ったので誰も飲めなかった。馬の毛だろう。草原のいたるところに馬はいた。
まぼろしの山、まぼろしの星
夕方、同じツアーのおじさんと散歩にでかけた。
「あの丘を目指そう」
とおじさんが言う。ツーリストキャンプの裏になだらかな丘があった。奈良の若草山みたいな緑の丘だ。
出発したのが8時。夏のモンゴルではまだまだ真昼のような明るさだ。私達は元気に歩き出した。モンゴルの草原。どこまでも広がる草の海。どっちを向いても地平線だ。
風がごうごうと吹きわたって草がなびいている。人工的なものは本当になにもない。なんにもないけれど鳥や虫や小さな生き物たちで満ちているのがわかる。人間の営みすら、ささやかな生き物たちのひとつにすぎない。
こう広いと、どこまでも歩きたくなる。
「歩け歩け」
おじさんと2人で歩きつづけた。
夏の太陽はなかなか沈まない。9時をすぎてようやく地平線に近づいたお日様は、赤色ではなく、てらてら光る白銀の玉だった。玉のまわりは金色だ。玉から放たれる光が、何千本もの金銀の矢になって大空に放射されていく。光の矢は草原をつつみ、私達を貫いて、地平の彼方へと達する。遠くに浮ぶ雲はぶどう色になり、それから深い赤ワインの色へ変わる。
……いや、詩的になってる場合じゃない。ここはひとつ冷静に考えなければならない。私はおじさんに指摘した。
「目指して歩いてるあの丘、あれは丘じゃないかもしれません」
「そういえば、ここも登り坂のような気がするな」
傾斜がわからないほどゆる~い上り坂の草原。それが地平線まで続いていると、遠目には丘に見えるのだった。つまり私たちは「存在しない丘」を目指して歩きつづけていたのである。
「帰ろうか」
草原のど真ん中で日が暮れるときっとものすごく怖い。帰り道は、いやに遠かった。
運命の馬乳酒
あれは何軒目のゲルだったか。
「遊牧民は訪問客がくると手厚くもてなす習慣がある」
といって盃をさしだされた。なにやら濁った液体が入っている。
「これは馬乳酒です」
添乗員さんは日本語で言った。
「日本人の体には合わないので絶対に飲まないでくださいね! 口をつけるフリ、飲んだフリだけにしてください」
そんなこと言われても。好奇心には勝てないじゃないか。馬乳酒っていうと馬のお乳だぞ。どんな味がするのか試してみたいじゃないか。
虫をかじったあの時と同じワクワク感が湧いてきて抵抗できなかった。飲んだフリのフリをしてこっそりと飲んだ。一口だけ……いや、半口ていど、コックリと。
それが運命の分かれ道。
ということになってるけど、そのあとラクダの乳とかラクダのチーズとかジャンジャン出てきたから、正直どれに当たったのかはわからない。
地獄のはじまり
一旦草原を去り、モンゴルの首都・ウランバートルに向かう朝のことだった。ゴビの空港で突然、猛烈な吐き気におそわれた。
あまりにも急だったので、
「うわっ、吐くかも!」
と思わず叫んだ。
「トイレトイレ、トイレはどこだ!」
口を押さえながらたどり着いた野外トイレはウンコが山盛りになっていた。いろいろ修羅場だった。
無事に飛行機に乗ることはできたが、離陸も着陸も気づかずに眠りこけていた。そのあとホテルで大人しくしていればいいのに、一度吐いてしまうとすっきりするものだから「もう終わったんだろう」と思って観光バスへ乗りこんでしまった。
本当に馬鹿だった。それは終わりどころか、始まりだったのに。
連れて行かれたのはウランバートルの恐竜博物館だった。大きな骨格標本が飾られているはずだが私はなにも見ていない。博物館に着いたとたん、猛烈な吐き気と下痢が襲来したのである。 立っていることもままならない。顔を上げるだけで吐いてしまう。
添乗員さんは事務所のような小部屋に私を連れていき、丸イスに座らせると
「車を呼ぶからここで待ってて」
と足早に去っていった。
静かな部屋だった。ビニール袋を握りしめ、ひとり吐き気に耐えていると、
「だいじょうぶかい」
と声をかけられた。目をあげるとしわくちゃな顔があった。しわくちゃのモンゴル人のおばあちゃんが心配そうに私を見つめていた。120歳くらいに見えた。モンゴル語はさっぱりわからないが優しい声で話しかけてくれた。
「あんた、お腹が痛いのかい。かわいそうにね」
私は答えることもできずにただ泣いていた。
おばあちゃんはそうっと私の手をとった。ゲロで汚れている私の手を拭いてくれた。しわくちゃであたたかい手だった。そうして指で、私の手のひらに不思議な模様を描きはじめた。低い声で、歌うような節をつけて、なにごとか呪文を唱えながら。
呪文が終わると
「もう大丈夫だよ。これできっとよくなるよ」
と言ってくれた。つらくて心細くてたまらなかった私は、おばあちゃんの優しさにまた泣いてしまった。
寝込む
残念なことにおばあちゃんの呪文はぜんぜん効かなかった。添乗員さんが呼んでくれた車でホテルに向かい、ベッドに倒れこむ。ウランバートルは首都なのでちゃんとした普通のホテルに宿泊した。
お腹の状態は坂を転がりおちるようにどんどん悪くなっていった。
下痢と嘔吐の間隔がどんどん短くなっていく。20分、15分、10分、5分…。胃も腸もひっくりかえり、食べたものも飲んだものもすべて流れていってしまう。お腹はとうに空っぽなのに嘔吐は止まらない。一体なにがこんなに出てくるんだろう。このまま内蔵までも出尽くして死んでしまうんじゃないだろうか。熱と恐怖で体がガタガタと震えた。
誰もいない部屋で一人で倒れていたら、ホテルの人が様子を見に来てくれた。彼は私の顔を見て一言、
「やばい」
と言った。モンゴル語だったけど絶対にそう言った。
あとの記憶は切れ切れだ。熱が上がり、意識が朦朧とする。入れ替わり立ち替わり、目の前に人があらわれては消えていく。次に目が覚めたときには医者が来ていた。ホテルマンが呼んでくれたらしい。かっぷくのいい女医さんだった。
「薬をのんで」
と言われたが吐き気が強すぎてぜんぜん飲めない。子供用の風邪薬みたいな、甘ったるいピンクの液体で、顔に近づけただけでもウッとくる。
朝だか夜だか分からない頃、また女医さんが来た。
「君はひどい脱水状態だ。入院したほうがいい」
医者の言葉をガイドさんが通訳してくれた。
「嫌です。入院は勘弁してください!」
私は断固拒否した。大変申し訳ないけど1997年のモンゴルの医療を信用することはできなかったのだ。そして朦朧としながらもインドで友人が倒れたときのことを思い出した。
「注射を射ってください」
必死に頼んだ。
「お願いだから抗生剤をください!」
医者は希望どおり注射を一本ぶすっと射ってくれた。助かったと思ったが、そのあとも一晩、苦しんだ。
ピンク色の飲み薬はやたらと甘い砂糖水のようだった。添乗員さんがスプーンで飲ませてくれようとしたが飲むことは難しかった。
それならと、私はよろめきながらスーツケースを開け、日本から持ってきた清涼飲料水をとりだした。ポカリスエット。命の水である。これなら脱水に効くはずだ。薬は飲めなかったけどポカリはちょっとだけ飲めた。
つらくて心細くて眠ることもできなかったその夜、日本語が聞きたくてテレビをつけるとNHKが映った。歌番組で、一路真輝がきれいな声でうたっていた。宝塚歌劇団を退団したばかりの一路真輝。『サマルカンドの赤いばら』にも出演していた一路真輝。子供の頃からずーっと聴いてきた歌声だ。言葉の通じない国で、倒れて、心細くて、どうしようもない時、モンゴルのテレビ画面に一路真輝が現れて歌っている。奇跡だと思った。
「負けないで、頑張って、治そう」
美しい歌を聴きながらメソメソと泣いた。
注射が効いたのかポカリが効いたのか、それとも一路真輝の歌声が効いたのか。やがて嘔吐の間隔が少しずつ開いてきた。5分が15分になり、30分になり、1時間も吐かないで耐えられたときは嬉しかった。やがて朝がきて、私はなんとか生きのびることができた。とはいえ、しばらくは起き上がることもできず、そのあとも数日間はホテルで寝込むしかなかったが。
地獄みたいなツアー
添乗員さんやガイドさんはもちろん、ツアーの人たちやホテルの人たちはとてもよくしてもらった。ツアー仲間の人たちは梅干しや卵スープを分けてくれた。
私がホテルで倒れている数日間も他の人たちはツアーを続けていた。ツアーの目玉だったはずの『遊牧民のお家にホームステイ』だ。
でもみんな、帰ってくると口々にこう言ったのだ。
「あんたはラッキーだったよ! 私も向こうで下痢になったの」
「私もよ」
「僕もです」
「みんな多かれ少なかれお腹こわしてたわ」
「私なんか、あなたに負けないほどぶっ倒れたのよ。吐き気がとまらなくて」
「それもホームステイ中によ」
「大草原よ」
「トイレなんかないわよ」
「トイレットペーパーもないわよ」
「これぞ地獄絵図よ」
「本当につらかった」
「医者もいないし」
「薬もないし」
「死ぬかと思った」
「あなたはウランバートル(首都)で倒れたから運がよかったのよ!」
「ちゃんとしたベッドも水洗トイレもあるところで寝込むことができたんだから」
驚くべきことに、ツアー客のほぼ全員がお腹をこわし、半数以上が草原でぶっ倒れるという地獄の様相を呈していた。初っぱなに倒れた私はとってもラッキーだったのである。
その旅行会社は、翌年つぶれた。
それから3年後、モンゴル人留学生を我が家でしばらく預かったことがあった。私がモンゴル旅行中に食あたりに倒れた話をするとその子は
「私もよ」
さらっと言われた。
「私も食あたりになるよ」
モンゴル人なのにモンゴルで食あたりするの?
「するよ。日本からモンゴルに帰ると絶対におなか壊すよ。2、3日は寝込むかなあ。他の人もみんなそうだよ」
馬乳酒に当たるとかいう以前に空気の問題じゃないかな、と彼女は言った。
モンゴルはいつかリベンジしたいと思っているが、怖くてまだ行けていない。それどころかしばらくは小籠包や肉まんが食べられなくなった。モンゴルでよく出てきた「ボウズ」という料理によく似ているため、肉まんを見ただけでトラウマが蘇っちゃうせいだ。おいしい肉まんを再び食べられるようになるには何年もかかった。