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12. 東南アジア 猫探しの旅(2)ミャンマー

謎の国ミャンマーへ!

その昔、若い芸人がヒッチハイクでユーラシア大陸を横断するというテレビ番組があった。番組ではタイからミャンマーに陸路で入ったかのように見せていたが、実は飛行機を使っていたといことがわかり騒ぎになった。当時のミャンマーはゴリゴリの軍事政権下にあり、陸路で入国なんかできるわけがなかったのだ。

私が東南アジアを旅した2002年もまだ同じ状況が続いていた。タイとは地続きなのに入れないなんて! なんて謎めいているんだろう。かえって興味がわいてきた。軍事政権てなんだか怖そうだけど行ってみたいと思った。

ミャンマーへ行こうと思ったら、お笑い芸人と同じ手段をとるしかない。飛行機に乗るのだ。私はバンコクに着いたその日のうちに旅行会社へいき
「ミャンマーへ行きの航空券と観光ビザをとってほしい」
と頼んだ。

航空券はすぐにとれたが…
「あいにくだが今日は土曜だ。大使館は閉まっている」
残念な答えが返ってきた。
「月曜の朝いちばんに取りに行くから、それまでパスポートは預かっておく」

パスポートを旅行会社に預けたまま数日を過ごす! こんなに心細いことはなかった。パスポートといえば旅行者にとって命の次の次くらいに大事なものである。パスポートを持たない外国人旅行者なんてパンツを履き忘れて学校へ行く小学生みたいなもんだ。なんか大事なところがスースーする。

一旦預けてしまったものは仕方がない。スースーするまま数日を過ごした。気を紛らわせるために現地ツアーに参加したり、死体博物館へ行ってみたり、占いをしてもらったりした。占いでは
「あなたは恋愛に向いていません」
と言われた。はなはだ失礼である。が、当たっている。

月曜の午後に旅行会社へ行ったがビザはまだできていなかった。
「明日きてちょうだい」
火曜の朝に行っても
「明日きてちょうだい」
水曜の朝に行っても…いや、アカンやろ。私のパスポート返してや!
それはカオサン・ロードの旅行会社で、いつもチャラチャラした若い男が店番をしていた。
「だってまだビザができてないんだもん。また明日きてちょうだい」
ヘラヘラ笑ってそう言うだけ。

私はキレた。ブチギレた。

「私の! ミャンマー行きの飛行機は!
今日出るの! 今日!
今日の午後! トゥディ・アフタヌーン!」

英語が苦手だから単語を繰り返すことしかできないが、十分に怒りは伝わった。
「…マジで?」
だらしないチャラ男は大慌てでとびだしていき、2時間くらいでビザと大事なパスポートを持って帰ってきた。できるんなら早くしろよと。今後、ビザの取得は絶対に自分でやろうと心に決めた出来事だった。

ビザ取得はギリギリになったがなんとか間に合った。ミャンマー航空に乗り込んだときはわくわくしていた。

インターネットを探してもミャンマーの情報はまだ少なかった。未知の国へ踏み込んでいくのだと思った。こんなに楽しいことがあるだろうか。これは「冒険」だ。エジプトのカイロで観光バスを降りたときからずっと求めていた冒険だ。

これから何が起こるかわからない。何が待っているかわからない。ちょっと怖いけど、それ以上に、浮きたつような喜びがあった。命と財布とパスポートの安全さえ確保できていればそれでいい。

同時に日本が恋しかった。相変わらずヘタレで泣き虫な私は、家族や友達やうちの猫のアジャリに会いたくてたまらなかった。

日本をでて数週間、ちょうどホームシックの時期に入っていたのである。このまま国境を越えてどこまでも旅をつづけたい気持ちと、早く家に帰りたい気持ちとが、ごたまぜになって飛行機に揺られていた。

タイム・スリップ・ミャンマー

謎の国ミャンマーは今までに訪れたどこの国とも違っていた。

ヤンゴン国際空港に到着した外国人は個人旅行者ばかりだったのに、全員がまるでひとつのツアーのように 団体行動を求められた。

入国審査を済ませると、ぞろぞろ並んで空港の両替所に連れていかれる。たったの20USドルしか両替できない決まりだったが、係員が小声で囁きかけてきた。
「5ドルくれたら100ドル両替させてあげる」
チップではない。そんなおおっぴらなものではない。やりとりはいつも小声でひそひそと行われた。この国では何をするにも賄賂が必要なのだった。

次はホテル選び。またしても外国人全員がぞろぞろとホテル案内カウンターに並ばされる。いかつい空港職員が見張っていて、列から抜けようとしたヨーロピアンを強制的に列に戻していた。

カウンターにはとんがった顔のお姉さんがいて、とんがった英語でまくしたててきた。非常にわかりにくい英語だが、ホテルの写真を何枚か並べているから
「この中から選べ」
ということだろう。選択肢はたったの数軒しかないらしい。
否やは許されない独特な雰囲気に気圧され、私は
「駅の近くでお願いします!」
と訴えるのがせいいっぱい。それだけで自動的に宿が決められた。

宿を決めると次は
「タクシー乗り場へ行け」
と指示される。

出口にはロンジー(民族衣装の巻スカート)を履いた運転手が何十人も待ち構えている。空港職員が運転手を1人を指名すると、外国人は荷物をとりあげられ強制的にタクシーに乗せられる。まるで流れ作業。私もあれよあれよと言う間にホテルへと連れていかれてしまった。

ようやく自由になれたのはホテルに着いてからだ。カオサンの安宿に毛がはえた程度だが値段は高かった。もちろん外国人専用。そこそこの朝食がついてきた。

翌朝、さっそく観光に出かける。お寺など観光地も多いが、ヤンゴンの町そのものが魅力的だった。

簡単にいうと2002年のヤンゴンは「昭和」だった。『三丁目の夕日』あたりの、21世紀どころか平成さえ来ていない、なつかしい昭和の香りがした(私はまだ生まれてないけどな)。

ヤンゴンは当時首都であり(現在の首都はネピドー)大都会だった。大通りにはたくさん車が走っている。大方は日本の中古車だ。箱根登山鉄道まで走っている。電気屋のショーウィンドウには、日本ではとっくに見られなくなった大きなガス炊飯器や、おばあちゃんが使っていた記憶のある足踏みミシンが、ぴかぴかの「最新商品!」として売られている。

軍事政権下のミャンマーではインターネットが禁じられており、ネットカフェも存在しない。立派なネット中毒の私にはこれがキツかった。トルコで大地震にあって以来、家族を心配させないようにとこまめにメールを送って生存報告をしてきたが、それもできない。

ネットの代わりに若者たちを集めていたのはテレビゲームだ。それもテーブル筐体のインベーダーゲーム。私が子供の頃にはやっていたものだ。もしかしてタイムスリップしたんじゃないかと本気で疑うくらいだった。

下町の路地に入ればさらに時代がさかのぼる。黒ずんでゴミだらけの道に鶏が走る。おじちゃんもおばちゃんも地べたに座りこんで話し込み、そのまま地べたで晩ごはんを食べている。しょっちゅう停電になるので外のほうが明るいからだ。調理には七輪やかまどが活躍している。もはや昭和前半の趣だ。

乗り合いバスに乗って

翌朝、ヤンゴンから約80kmの町・パゴーへ日帰り観光へ出かけた。

行きは乗り合いバスを利用した。いや、トラックバスというべきか。幌付きピックアップ・トラックを改造した乗り物だ。時刻表はなく、満員になったら出発するのだが「満員」の定義がひどい。ギュウギュウ度合いがハンパない!

車内がおしくらまんじゅう状態になったあとは天井(幌)に乗せる。それもてんこもりで乗せる。それから車の側面の窓枠と、背面のステップでも、捕まれるところ全てに乗客が隙間なくしがみつく。客の体で車体が見えなくなるまで乗せてやっと「満員」と見なされ、ようやくバスは出発するのだ。

私は背面に乗った、というか、しがみついた。30センチほどのステップに足を乗せ、幌の骨組みに腕を絡ませる。ジャングルジムにぶらさがってる子供みたいな状態だ。それで2時間、揺られていった。ぎゅうぎゅう詰めだから身動きがとれないし、腕はしびれるし、舗装もない道でトラックが揺れるたびに落ちそうになる。しかも炎天下だ。ギラギラの太陽が容赦なく肌を焼く。

私の隣には、70才くらいの焦げてしわしわになったおばあちゃんが同じようにしがみついており、
「しんどいねえ」
「暑いねえ」
と顔を見合わせてため息をついた。おもしろかったが、辛かった。

グッドスマイル?

パゴーではサイカー(自転車タクシー)の運転手に頼んで、地元で有名な猫屋敷や猫寺に案内してもらった。どこにでも猫好きはいるもので、そりゃあもう、うじゃうじゃいた!「猫100匹の写真を撮る」という目標はパゴーだけで達成されたんじゃないだろうか。

ミャンマーでは、観光地よりも何よりも、人々の笑顔が印象的だった。好奇心いっぱいで近づいてくるのに、英語が苦手だから、照れくさそうにはにかんだ微笑みを浮かべている。子供や女性は「タナカ」とよばれる白い日焼け止めを顔にぬっているのが可愛らしい。

サイカー運転手兼ガイドで雇った、マニーという男がこんなことを言った。
「この国は貧しい。でも人々はハッピーだ。グッドスマイルだ」
そのとおりだと思った。日本より50年ほど遅れているし生活は豊かではないが、人々の笑顔は美しく澄んでいる。いろいろな意味で擦れていないのだと思う。

だがマニーはこう続けた。
「貧しいのは政府のせいだ。この国では子供たちはみんな働いている。赤ん坊みたいな子供たちもだ。見てごらん!」

マニーの指し示した道路脇では排水口の掃除がおこなわれていた。指図しているのは大人だが、作業をしているのは子供ばかりだ。ほとんどが小学生、一番小さな子はせいぜい幼稚園児くらいだろう。

「見ろよ、まだほとんど赤ちゃんだ。溝の中に入って掃除をするには体の小さい子のほうが便利だからだよ」

かつてイギリスで煙突掃除をさせられていた子供たちの話を思い出した。体の小さい子のほうが便利だから煙突にのぼらされて、ときどき中で詰まって死んでしまう。

ミャンマーではたくさんの子供を見かけた。子供の数が多いというだけではなく、普通なら学校のある昼間でも、子供たちは店番に立ったり靴磨きをしたり働いていたからだ。

と、道路のむこうから隊列をくんだ子たちが歩いてきた。下校中らしい。汚れひとつないかばんを持って、ピカピカの制服と制帽がまぶしい。

「あれは金持ちの子たちさ。学費はすごく高いからほとんどの子どもたちは学校へ行けない。学校へ行けるのは役人の子供だけだ。なぜかっていうとね」
マニーは急に声をひそめた。
「政府がコントロールしているんだ。教育を受けた国民は自分で考えるようになり、政治に疑問をもつようになる。政府に反抗する。だからほとんどの国民は学校へ行かせないんだよ。現在の子供たちは、お腹がいっぱいであればそれだけで幸せだ」

当時のミャンマーには言論統制がしかれていた。政府への批判が警察や役人に聞きつけられたら逮捕されてしまうだろう。マニーはそこそこの勇気をもって話したのかもしれない。

「君に話を聞いてほしい」

ヤンゴンへ帰る列車の中では素敵な出会いに恵まれた。私と同じ年頃の若い夫婦と仲良くなったのだ。夫婦はとても親切で、言葉のわからない私をなにくれと世話してくれ、友達だよと言ってくれた。

だがそこに、
「君と話をしたい」
という男が現れ、雰囲気がガラリと変った。男は英語を話した。ミャンマーの人たちは英語が不得意だったがその人は流暢だった。

「外国人の君に聞きたい。この国はとても貧しいと思うのだが、君の目からはどう見えるか?」

自分は教師だという男の目は真剣だった。私は、初対面の人にあまり失礼なことを言えないと思い、マニーの言葉を借りることにした。
「たしかに貧しいが、美しい国だ。人々はグッドスマイルだ」

「ちがう!」
男は強く首を振った。激しい怒りにふるえていた。
「国民はみな貧しくて不幸だ。ミャンマーには光がない。真っ暗だ。見てごらん」

男は車窓を指さした。とっくに日が沈んで世界は闇に覆われていた。列車が停まっていたのでどこかの駅に着いているはずだが、何も見えない。また停電していたからだ。この国では電気がつく時間より停電している時間のほうが長い。

「この国は闇だ。ほとんどすべての国民が今の政府を嫌っている!」
男はおおげさな身振りで語った。
いつのまにか周囲には人だかりができていて、何人かが心配そうに
「やめておけ、逮捕されるぞ」
と止めていた。

男は最後に
「この国の本当の姿を外国の人に知ってもらいたい」
と言い残して去っていった。

電気がつくと、男の言うとおり、列車からは貧しい国の貧しい田舎がよく見わたせた。ホームには待ちくたびれた乗客のほかにニワトリやネズミが走り回っている。

列車は駅もなにもない所でもよく停まったが、そのたびにいろいろな人たちが乗り込んできた。トウモロコシ売り、ゆで卵売り、タバコ売り。

ゴミ拾いの人たちも多くやってきた。卵の殻やトウモロコシの芯、よごれた弁当箱やペットボトルを持っていってくれるのだが、清掃係ではない。彼らはそれを食べて生きているのだ。

ほんの5才くらいの女の子が手慣れた様子で座席の下にもぐりこみ、床に転がった弁当箱を見つけだした。だが期待したほど入っていなかったようで、もう一度もぐって汚れたトウモロコシの芯を抱えて出てくると、それをかじりながら歩いていく。

私と仲良くしてくれた若い奥さんがその子に声をかけ、まだ半分実のついているトウモロコシを差し出した。女の子は無言でそれを握りしめ去っていった。顔も手も足もどこもかも真っ黒だった。

窓の外でも声がする。何人も何人も線路脇で手を振っている。乗客にむかって
「ゴミを放ってくれ!」
「ペットボトルを投げてくれ!」
と頼んでいるのだ。

乗客が飲み終わったペットボトルを窓から放り捨てると、待ち構えていた人々が群がってペットボトルを奪いあった。そのとき一瞬、列車の灯りが彼らの姿を照らしだした。痩せこけて幽霊みたいなお年寄りたちだった。杖をついたおじいさんもいた。彼らはあのペットボトルを何に使うのだろう。生き延びるためであることは間違いない。

やがて列車は動きだした。
貧しい老人たちを闇の中に残したまま。
すべてが後ろへと流れ去っていった。

ネット中毒

ミャンマーの旅は刺激的だったが、何がつらいって、ネットがないことがつらかった。私は当時かなりのネット中毒で、宝塚友達とのチャットにはまっていた。徹夜でおしゃべりしていたら白々と夜が明けてきて
「あ、そういえば旅行いくんだった。ちょっとアフリカ行ってくるわ」
と寝ないままケニアへ行ったりしていた。

マレーシアでもタイでもネットに困ることはなかった。たしかWi-Fiはまだ普及していなかったが、代わりにネットカフェがどこにでもあったからだ。毎日一度は冷房とトイレを求めてネットカフェで一休みしながら家族や友達と連絡をとりあうのが心の拠り所だった。

ところが軍事政権下かつ昭和なかばで時が停まっているヤンゴンにはまだインターネットが登場していない。現代人ならスマホと取り上げられた状態だろう。けっこうキツかった。

ヤンゴンからバンコクに帰ると、最初に見つけたネットカフェへ吸い寄せられるように入っていった。ヤンゴンに比べるとバンコクは麗しの大都会に見える。必要なものはなんでも買えるしファストフード店もある。人々はちゃんとした服を着ているし宿にはネズミが走り回っていない。真っ黒になるほど蝿がたかった店もないし、軍人にみはられたりワイロを要求されたりしない。ここは天国だ。

ホッとして気が抜けたのか下痢をした。

最後の国境越え

帰国まで何日かあったので、最後にもう一度だけ陸の国境を越えにいこうと考えた。タイを北上すればラオスに出る。私は再び寝台車に乗った。エアコン寝台の上段は凍えそうな寒さだった。

列車に乗るとどうしてもまたミャンマーのことが思い出される。闇と太陽と人々の微笑みのコントラストが鮮やかに脳裏に焼き付いていた。今この瞬間もあの子供たちは溝をさらっているだろう。おじいさんたちは線路沿いでゴミを集めているだろう。私はなんてのんきな旅をしているのだろうか。

夜行列車の旅は平和そのものだった。終着駅のノーンカーイで降り、メコン川にかかる橋をわたればそこはラオスである。出入国も簡単で、観光ビザもその場でもらうことができた。

数日ヴィエンチャンを歩き、またタイに戻ってコラートの町に立ち寄った。ピマーイ遺跡をみた。何匹もの猫の写真を撮った。楽しくないわけではないが、さしたる出来事も起こらず、淡々と時が過ぎていき、私はすんなり帰国の途についた。

ぐんぐん発展しているマレーシア。
貧しさに閉じ込められたミャンマー。
王室を崇めるタイ。
メコン川のむこうのラオス。
4か国を訪れる旅はこうして終わった。

100匹の猫の写真を撮るという目標は達成した…と、思う。
何匹撮ったのか途中でわからなくなったからだ。
陸の国境は2度またいだ。
でもそんな些細な旅の目的なんてどうでもいいことだった。
旅に目的なんていらなかった。
見たことのないものを見て、感じたことのないことを感じ、日本では想像することすら難しいことを考える。
私の旅はそういうものだった。

いつかまた、あの国に

今でもときどき、ミャンマーのサイカードライバー・マニーの言葉を思いだす。
「現在の子供たちはお腹がいっぱいであれば幸せだ」
社会に疑問をもたず、自分の頭で考えず、ただ自分が生きていくことだけでいっぱいいっぱいの子供たち。

私はどうなんだろう。私たちは。学校へ行き教育は受けたが、ちゃんと自分の頭で考えているといえるのだろうか。

軍事政権の下、圧倒的な貧しさに閉じ込められていた謎の国ミャンマー。その下には人々のはにかんだ笑顔とどうしようもない貧しさが隠されていた。

私が旅してから9年後、ミャンマーは民主化に転じ、現在も急速に発展しているという。民主化されたミャンマーはどうなっているのだろうか見てみたいと2013年に旅行を計画したが、母の急病で頓挫した。

きっともう昭和の香りのする裏路地はないだろう。タナカを塗る人たちも減っていると聞く。それでもいつか必ず、発展したミャンマー、本当のグッドスマイルを得たミャンマーを旅したいと願う。その頃には子供たちがみんな幸せになっていることを信じて。

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