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1.子供時代

 私は学校が嫌いだった。深刻な理由ではなく、ただ学校という団体行動が性に合わなかった。「みんないっしょ」が生理的に受け付けなかった。学生服がずらりと並んでいるのを見ると鳥肌がたっちゃうのだ。
 そのうえ世は校内暴力の時代だった。授業で「わかりません」と答えただけで殴られる。スカートの丈が一センチ長いだけで殴られる。理不尽だと思ったので私は入学してまもなく学校へ行くのを止めた。
 すると男の先生が家まで迎えにきた。
「行きたくない」
 と柱にしがみつく私を力づくて引き剥がして学校へ引きずるように連れていく。
「今日は球技大会だから絶対に出席しろ!」
 球技大会がなぜそんなに大事なのかぜんぜんわからなかった。今でもわからない。

 子供の世界は学校がすべて。学校が嫌いな私の世界は、とほうもなくつまらなかった。だから本ばかり読んでいた。毎日毎日、ありったけの本を読んでいた。現実逃避に必死だったのだ。現実世界に楽しいことなんて無い、と思いこんでいたから。
 小学五年のとき熱をだして学校を休んだ(もしかしたらズル休みだったかもしれない。熱を出すのも下げるのも自由自在だったから)。二段ベッドの上段で小学生向けの雑誌を開いたら『世界の七不思議・謎の遺跡』という特集が組まれていた。わりとオカルト的な記事だったけど、そこに見開き二頁をつかってマチュピチュ遺跡の写真が載っていた。粗いモノクロ写真だったが、天空にそびえる山と遺跡のコントラストは衝撃的だった。
「すごいなあ。見てみたいなあ」
 遠い世界に対する憧れがチラリとよぎったがシャボン玉のように一瞬で消えた。
「どうせ行けないよ、こんなところ」
 私は雑誌を閉じて本の世界に帰っていった。何者も私を傷つけず、邪魔をせず、悩ませず、私というものさえ消してしまう物語の世界へ。

 生きているのか死んでいるのかわからない状態の子供時代、唯一の救いが宝塚歌劇だった。本と同じで現実逃避できる夢の世界だったから。
 宝塚歌劇にハマったきっかけは『サマルカンドの赤いばら』という舞台。砂漠の盗賊ハッサンがサマルカンドのお姫様と恋に落ちるというファンタジーだ。お姫様とか恋とかはどうでもよかったが、砂漠の盗賊ハッサンがとにかくカッコよかった。砂漠に風が吹き、大きな月を背景にハッサンが歌い始める。
「この世は一陣の風まぼろし。だから過ぎし日を思い悩むな」
 ハッサンの歌を聴きながら考えた。
 この砂漠はどこにあるのだろう?
 パンフレットに演出家の大関先生がサマルカンドという街を訪れたことがあると書いてあった。夢の舞台のサマルカンドは実在するのだ! いつか私もサマルカンドに行けるだろうか? チラリよぎった考えをまた一瞬で打ち消した。
 「行けるわけがないよ、そんな所」
 そんなこと考えるだけ無駄だ。

 高校では仲のいい友人ができたが、担任教師が嫌いすぎて毎日吐きそうになっていた。カスみたいな青春であった。
 それでも後悔はしていない。若い頃にもっと勉強しておけばよかった、と言う大人は多いけれど、私はそうは思わない。もしも勉強に力を入れていたら、青春を謳歌するリア充になっていたら、きっと今の私はないだろうから。

 甘ったれでネガティブでどうしようもない私を変えたのは、皮肉にも高校の授業だった。あんなにも嫌いだった学校なのに!
 世界史の講師が変わり者で、授業に関係のない話をたくさんしてくれた。主にアラビアの話だった。エジプトのピラミッドがどんなに大きいか。アラブ人のおっさんがどんな風にお茶をすすめるか。言葉が通じない国への旅行がどんなに大変か。私はその話を聞いてちょっとアラビア世界に興味をもった。
「いいぞー、エジプトは!」
 先生が何度も言うものだから。エジプトへ行きたくなってしまったのだ。

海外へ行こう

 海外へ行くなんて行動力がいりそうに思える。だがこれも「現実逃避の一環」だった。日本の兵庫県の田舎町の家庭からの逃避行。いや、自分自身からの逃避行だったのかもしれない。
 生まれて初めての旅を決意したのは祖母の家にいたときだった。当時、祖母は脳梗塞の後遺症で介護が必要だった。高校卒業を控えた冬のある日、外出する祖父にかわり私は祖母の介助をしていた。昼ごはんを用意したり、祖母のつかったポータブルトイレを片付けたり、部屋の掃除をしたり。 ハタキをかけながらおしゃべりをしていたとき、ふっと思い立った。ふっと……。薄暗い部屋とつみあげられた本の山、窓辺でホコリが舞って日光にきらきら光っていたのをよく覚えている。
「ねえ、おばあちゃん。いいこと考えた」
 私はベッドで横になっている祖母に話しかけた。
「旅行にいこうと思う」
「いいねえ。卒業旅行かい。どこいくの」
「エジプト」
「エジプト? エジプトって、あの、なんていうの、大きな三角の山みたいな?」
「うん、ピラミッド。ピラミッドのあるエジプト。中東の。そこに行こうかなって」
「ほううううううう」
 祖母は目を白黒させていた。それはそうだろう。昭和から平成になって間もないその頃は、海外旅行といえばハワイかグアムが定番だった。エジプトなんか「世界の果て」くらいに思われていた。私もそう思っていたのかもしれない。世界の果てへ行こうと。
 アラビア好きの講師に影響されたこともある。砂漠の盗賊ハッサンが駆け抜けた砂漠というものをこの目で見たいと思っていたことも。だが一番大きな理由は、おもしろくも楽しくもない現実から逃げ出したかったのだ。
 高校を卒業して大学へ行って就職する。このまま大人になっていく。そんなのはつまらない。あまりにも退屈だ。それを忘れたかったのだ。
 突然エジプトへ行きたいといいだした孫にどう返事をしようかと、祖母はしばらく考えていた。大正生まれの祖母にとって、海外、とくにアラビア世界なんて地の果てへ行くのは、しかも女ひとりで行くのは暴挙に違いなかったはずだ。
 大きなため息をついた祖母は、
「それはいいね」
 と言った。
「行っておいで」
 祖母は心の強いひとだった。新しいものが大好きで、挑戦的なひとだった。その血を受け継いでいるのは私の誇りだ。

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