1998年 一人旅に挑戦!
モンゴルで死線を越える経験をした私はさらに強くなった。……と、自分では思った。ドラクエでいうとたぶんレベル4くらい。ドラキーならノーダメージで倒せる自信がある。
そこでもっとハードな旅に出ようと思い立った。ついに、冒険者初めての試練に挑戦すときが来たのだ!
つまり。
それは。
一人旅である。
それでもやっぱりヘタレな私。知らないところへは怖くて行けない。知っているところは限られている。じゃあ、タイへ行こう。R子と旅した経験のあるタイへ。タイの人たちはみんな優しかったし、一度歩いた町だからなんとなく安心だ。
ということで初一人旅はバンコクを中心に旅することに決めた。
それだけではない。
なんと!
今回は、宿を決めずに出かけたのだ!
宿の現地調達なんてバックパッカーにとってはごく当たり前のこと。バンコクにはおびただしい数の宿やホテルがあるからベッドにあぶれることはない。
けれどビビリでヘタレで泣き虫の私にとって、生まれて初めての宿探しはむちゃくちゃ不安だった。最悪、野宿になるのだから。それでも「宿探し」というものをやってみたかった。なんだかとても……冒険のような気がして。相変わらずヘタレなうえに馬鹿なのである。
旅立ちの前夜は、緊張しすぎて眠れないどころではなく、出発前からもうお腹をこわしていた。
チャイナタウンのゲストハウス(約1350円)
バンコクに着いて最初の宿をどうやって決めたのか記憶にない。たぶんガイドブックに載っている中から目星をつけたのだろう。
チャイナタウンの川沿いにある安ホテルだった。小さくて貧しげな民家がみっしりと並んだ奥に隠れるように建っている。トゥクトゥクに住所を告げると運転手はだいぶ苦労しながら探しだしてくれた。
ホテルのフロントは静まりかえっていた。客の姿はなく部屋はいくらでも空いているようだ。緊張で声を震わせながらフロントのおばちゃんに声をかけた。
「今夜、泊まりたいのですが、シングルルームはありますか?」
たどたどしい英語だったが300回くらい練習していったからちゃんと通じた。おばちゃんはそっけなく答えた。
「ファン(扇風機)なしがいいか、ファン付きがいいか?」
「……エアコンは?」
「エアコンは壊れている」
この時点で引き返すべきだった。7月のバンコクは雨季真っただ中。湿気もすごいし死ぬほど暑い!エアコンの壊れたホテルなんかに泊まりたい人はいないだろう。
ところが私には勇気がなかった。もともと持ち合わせの少ない勇気をここへ来るまでに使い果たしている。もう一度ホテルを探してトゥクトゥクで行ってフロントで「部屋はありますか?」と英語で言うなんて無理だ。それに、次のホテルで「満室だよ」と言われたら野宿になっちゃう心配があった。
「ファンなしなら450バーツ、ファン付きなら550、どっちにするの?」
フロントのおばちゃんに迫られたとき、いっぱいいっぱいだった私は、とっさに
「ファンなしで…」
と答えてしまった。とっさに値段を気にしていた。
チェックインし、部屋で一人になったとたん、涙がでてきた。はりつめていた緊張がほどけたのか、疲れがでたのか、野宿せずにすんで安心したのか。
「この心細さにいつか慣れるのだろうか」
と泣きながら寝た。旅を重ねるうちにだんだん面の皮が厚くなって野宿でも泣かないようになるのだが。
安ホテルはチャイナタウンの下町にあった。夜になると半裸の男どもが道ばたでゴロゴロと寝ている。妖怪みたいなおばあさんが道をふさいでいる。深夜におっさんの号泣で目を覚ます。
ホテルのすぐそばには毎朝、小さな市が立つ。屋台でおかゆの朝ごはんを食べたり果物や揚げパンを買えるのは便利だった。近くには神社のような廟もあり、若いお母さんが子供を遊ばせていた。ホテルの裏にはチャオプラヤー川が悠々と流れている。涼しい風の吹く川べりは天国のように心地がよかった。
地元の生活を間近に見られるのはよかったが、すぐにそんなこと言っていられなくなった。なにしろエアコンも扇風機もない部屋だ。サウナに宿まってるみたいなもんだ。シャワーを浴びても浴びても服を着る前に汗だくになる。昼間はともかく、夜も眠れたもんじゃない。
2日目で全身にあせもができ、3日目にじんましんに進化したところで宿替えを決意した。我ながら3日もよく耐えたと思う。次の宿を探す勇気が出なかっただけなのだけど。
カオサンのゲストハウス(約700円)
扇風機すらない安ホテルをチェックアウトした後、私は荷物をかついでカオサン・ロードにやってきた。外国人向けのカフェや旅行会社や土産物屋が立ち並ぶ、バックパッカーの聖地と呼ばれている通りだ。カオサンには安宿がひしめいており泊まる場所には困らなかった。
エアコン付き、シングル、そしてトイレがちゃんと流れること。それだけの条件で宿を決めた。なるべく安い宿を選んだ。生まれて初めてゲストハウスに泊まった感想は
「ここは牢獄か?」
だった。せいぜい3畳一間の薄暗い部屋。明り取りの小窓にはガチガチの鉄格子がはめられている。家具は木製のガタガタするシングルベッドのみ。
枕元のドアをあけるとシャワーとトイレがあった。というか、個室トイレの便器の真上にシャワーがついていた。
「トイレとシャワーが同時にできるなんて便利やん」
とか思ったが、実際にやってみるとトイレットペーパーがびしょ濡れになってしまう。ぜんぜん便利じゃない。シャワーも水しか出なかったが、それでもエアコンがついているのでありがたく泊まることにした。
バックパッカーに教えてもらった宿(約1350円)
その後、観光地でたまたま知り合ったドイツ人に、宿選びに苦戦している話をすると大笑いされた。
「ファンなしで450バーツだって! ボッタクリもいいとこだな!」
そうか私はぼったくられていたのか。
「俺の泊まってる宿を紹介してあげるよ。そこも450だけど、エアコンつきでホットシャワーとテレビと湯沸かしポットがついてるよ」
「それ完璧やん!」
彼に連れていかれた宿はたしかに450で、エアコンとホットシャワーとテレビとポットとそのうえなんとシャンプーハットまで付いていた。ここは天国かと思った。
ただフロントのおばちゃんがすごく怖かった。ドイツ人には愛想よく笑いかけるくせに、私には挨拶も返してくれないし、ものすごい目でギロリと睨んでくる。理由はわからない。何もかも完璧な宿なんて無いのだと知った。
あちこちを旅するようになった現在でも私は宿探しが苦手である。面倒くさくてたまらない。旅慣れたバックパッカーは大抵、宿選びにこだわりをもっている。ここは汚い、ここは壊れている、だから安くしろ、などなど妥協せずに何軒も見てまわるものだけど…重い荷物をかついで歩き回るのはとても疲れるし時間の無駄だ。失敗してもかまわないから、口コミを頼りにネット予約してから行くほうが私は好きだ。