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19. ネパール・インド・ガンジス川(5)カルカッタ

カルカッタ到着

列車は無事にカルカッタへ到着した。すでにバンコクへ帰るフライトを抑えてあるので、カルカッタには一泊だけの予定だ。

K君も同じフライトで帰国する予定だったから
「じゃあ、次は空港で会おう」
と言って別れた。
私はまた一人になった。

カルカッタは大きな都市なので観光スポットは数多いが、今回は時間がない。せいぜい1か所しか行けないだろう。私はてきとうな宿に荷物だけ置くと、地下鉄に急いだ。

・・・が、地下鉄を降りたとたんに若い男に捕まった。真っ赤なTシャツのナンパ男。相手をするのは面倒くさいが、こんなやつでも利用価値はある。
「カーリー寺院はどこ?」
と道をきいたら、親切に案内してくれた。

カーリー寺院の闘い

ヒンドゥー教の女神カーリー。

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血と戦いの神であり、手には生首を持ち、どくろの首飾りを身に着け、長い舌をだして踊る。お供え物はヤギの生贄。なかなか強烈な神様である。だからこそ見てみたかった。どうしてこんなに怖い神様を崇めるのか知りたかった。

だが・・・それどころじゃなかった!

寺院の入り口で、さらに面倒な男につかまったのである。
「私はこの寺の長だ。寺を案内してあげよう」
「いらないです」
即座に断った。偽ガイドである。詐欺師である。案内料をぼったくられることはわかりきっている。振り切らねばならない。

だが、カーリー寺院の偽ガイドは一筋縄ではいかなかった。やたら貫禄のある初老の男で、銀鼠色の立派なべストを着ている。「私は寺の長だ」という言葉を裏付けるように、手下みたいな若い連中を2,3人従えている。こいつは雑魚ではない。寺長ではないにしても何かしら偉い人かもしれない、と思わせる風格がある……チンピラの親分のような。

男は、断られてもおかまいなしで後をついてきた。
「ガイドはいらない!」
私が何度くりかえしても余裕の笑顔。
「はっはっは。何をそんなに神経質になっているんだね。旅行者はみんなガイドをつけるものだよ」
「どっかいってよ!」
…と怒鳴って追い払いたかったが、少し怖いのでできなかった。チンピラならともかく本物のヤクザだったら危ない。無視することにした。

インドはどこでもそうなんだけど、カーリー寺院も参拝客でごった返している。狭い入り口にさしかかったとき、男が私の前を歩いていることに気がついた。いつのまにか男の手下たちが私の左右を固めている。しまった、囲まれた!
「さあ、こちらですよ」
男がごく自然な様子で先導していく。もうすっかりガイド気取りだ。私は最後の抵抗をした。
「言っとくけど、私、小銭しか持ってないよ? スモール・マネー・オンリー!」
男は不敵な笑いを浮かべた。

カメラを取り出したら撮影料をとられるかもしれない。写真の1枚も撮れなかった。ただただ緊張したまま進んでいく。お供えの花を持たされ、靴を脱ぎ、寺院の奥へと案内される。靴は見張り番の少女に預けた。

ヤギの生贄やカーリー女神の像を見たのだろうけれど、悔しいことにほとんど覚えていない。どうすれば無事に逃げられるだろうと、それだけで頭がいっぱいだったからだ。

覚えているのは偽ガイド男とのやりとりだけだ。
「さあ、この木に願いごとをしなさい。必ず叶います」
私の願い事なんか決まっているじゃないか。
「お金を払わずにここから出られますように!」
男は相変わらず不敵な笑みを浮かべている。

気がついたら小部屋につれこまれていた。ほんの2、3畳しかない狭い部屋で、テーブルを挟んで男と手下たち、それに私が向かい合うともう身動きができない。なんだこの部屋は?

手下の一人がドアを閉めようとするのを
「閉めないで!」
大声で止めた。
ドアを閉めたら監禁される!

「どうしたんだい、何を心配しているの?」
初老の男は笑いながら、おもむろにノートをとり出した。
「この寺院のため、貧しい人々のため、お布施をしてください。ほら、このノートを見てください」
・・・出たよ。
寄付金ノートである。

寄付金ノートは、偽ガイド商法とセットで使われるものだ。利用した観光客が偽ガイドの感想とか支払った金額を書いている。
「このガイドはいい人です!500ドル払いました!」
とか何とか。もちろん、正しいガイドが客寄せのために使っている場合もあるが、偽ガイドが利用する場合は主に
「他の客はみんなこれだけ払ってるんだから、おまえも払え」
という脅しの意味になる。

ノートには世界各国の旅行者の署名が並んでいる。日本、アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、シンガポール、香港、カナダ・・・世界中のカモの名前である。

そして署名の隣には、彼らが『お布施』に払った金額がそれぞれ記されていた。200~1500、平均で500くらいだろうか。中には7000という数字も見つけた。
「単価はルピーだよね?」
「あはは、まさか! 全部ドルだよ」
「あ、ほんとだドルマークついてる」

1ドルは約110円。500ドルなら5万5千円。7000ドルってなると、・・・え?
金額の大きさに鼻血が出そうになった。
私の反応にも男はゆったりと微笑みを浮かべている。
「彼らはこの寺院に感銘を受け、貧しい人々のために喜捨したのです」
そんな。
そんな馬鹿な。
ここへ連れ込まれた人たちはみんな、胡散臭いヤクザみたいなオッサンに言われるがまま大金を支払っているのか。支払わないと……どういうことになるのだろう? この男たちの一人くらいは刃物を持っているのだろう。

だが、そう簡単に折れるのは悔しい。私は食い下がった。
「私は払わないよ?小銭しか持ってないって言ったでしょう」
「はっはっは。何を言っているんだい、ここまで案内させておいて」
「あんたが勝手にしたことやんか!」
自然と関西弁が出た。関西弁でケンカをすると負けないことを、私はこれまでの旅で学んでいた。

あとは英語とヒンドゥー語と関西弁の入り混じった言い争いだ。こういう時って、言葉が通じなくても話は通じるんだから不思議だ。

「お布施だ!お布施を払えって言ってるんだよ!ここは寺院だ!」
「ほんなら、これで!(チャリン)」
「2ルピーって!ふざけてるのか! せめて100ルピーは出せよ!」

なんだ100ルピー(約200円)でいいのかと一瞬思ったけど、たとえ1ルピーだってこのおっさんには渡したくはない。もはや金額の問題ではなかった。

「日本人よ、お前の母国では寺にお布施も入れないのか?」
「そんなんに100も200も払うやつがあるか! 私は正月に京都の神社を詣でたが、お賽銭は2円ですませたぞ!(実話)」
「おまえケチだな!」

だんだん論争の焦点がズレてきたりとか。

正直、怖かった。私たちが口論している間も手下たちは黙って睨みつけてくる。もしこの男たちが本気を出したらどうなっちゃんだろうと思うと、ものすごく怖かった。だが、怖さと同じくらいキレていたのだ。
「この日本人なら500ドルくらい出すだろう」
と値踏みされ、気の弱そうなところにつけこまれ、ナメられているのが悔しかった。

たしかに私はヘタレだけど。泣き虫のアカンタレだけど。負けるわけにはいかない。なにしろお金の問題だからな!

睨み合いがつづき、沈黙が流れた。
私はどうするべきか必死で考えた。

私は部屋のまんなかで男たちに囲まれている。
背後にはニタニタ笑いの初老のおっさん。
左手には手下が一人。
右手にも一人。
それから、ドアを塞ぐ形でもうひとり。

逃げ場はなさそうだ。
ただ、さっき私が止めたため、ドアは閉めきられていない。
わずかに開いて外が見える。
あいかわらず混雑している様子が見える。
あそこに出られたら助かるだろう。

「帰る!」
ほんのわずかに開いたドアの隙間に手をのばした。手下の男が通せんぼしてくる。その腕をかいくぐって外に出た。手下はさほど抵抗せず私を通した。私がどうあっても金を出さないと悟っていたのだろう。初老の男だけが
「まあ座れよ、シットダウン!」
と言ってきたけど無視した。

靴番の少女に小銭を払い、靴をはく。そのまま人混みの中にとびこんでもよかったのだけど、お供えの花をもらったことを思い出した。花代を払わなければこっちが泥棒になってしまう。

一瞬だけ引き返して花代を支払い、それから
「ガイドありがとう!」
初老の男に5ルピー硬貨を手渡した。男は相変わらずのニヤニヤ顔で、皮肉たっぷりに
「Thank you」
と慇懃なお辞儀をした。

ようやくのことで寺院を出ると、赤いTシャツの男に声をかけられた。地下鉄で道を教えてくれたナンパ男である。
「大丈夫?何かあった?」
何かあったもないもんだ! 知ってるくせに。こいつが私をカモとして売ったんだろうと確信していた。
「よかったらお茶していかない?」
こんどはどこへ連れていく気だ? ぼったくりの土産物屋か? 高級サリー屋か? なおも誘ってくるナンパ男を無視してずんずん歩いて帰った。

カルカッタの街角で

ホーリーが来る!

くたびれて宿に帰ると、宿のオーナーが声をかけてきた。
「ねえ君、明日チェックアウトってなってるけど、明日はホーリーだよ。知ってる?」
あ、そうなの? 知らんかった。 ホーリーって何? お祭り?
「えええ、知らんのかい!!!」
宿の主人は目をむいた。

ホーリーは年に一度のビッグイベント、大きな祭である。しかもただの祭ではない。色のついた粉を誰彼なしにぶっかけ合うという、ド派手な祭なのである。

そういえば街中にウキウキした空気が漂っていたなあ。あちこちでピンクや黄色や緑色の粉を売っているから何だろうと思ってたんだ。通りがかりの子供にいきなり水風船をぶつけられたこともあったっけ。なかなか楽しそうだね。

するとオーナーは急に真面目になってこう言った。
「いいか日本人、よく聞け。ホーリーはヤバい。むちゃくちゃヤバい祭なんだ!」

ただでさえテンションの高いインド人が年に一度の祭りで盛り上がったらどうなるか? 色の粉をまくだけじゃすまない。集団心理がはたらいて、より過激な方向に走る。外国人は目立つから、毎年、格好の的にされる。
「うちの宿泊客も毎年ケガをして帰ってくるんだ。去年のアメリカンは頭がパックリ割れて大変だった。一昨年のやつは入院した」

オーナーは宿泊客に向けて『ホーリー注意書き』を貼り出していた。

・ホーリーの日に1人で外出することを禁じる
・外出する際は行き先をスタッフに伝えておくこと
・ホーリーの5時以降はたとえ男性複数人でも安全ではない
・とくに女性は外へ出てはいけない。外国人女性は高確率でレイプされる
・ホーリーが見たければ屋上からでもよく見える
・これらはあなたがたを守るためのお願いである

なんだこれは・・・
パーリーピーポーの祭典、恐ろしすぎるだろ。現在は外国人も参加できるようになったと噂に聞くが、2004年のホーリーは完全にクレイジーだった。

ビビってる私に主人は言った。
「大きな荷物を持ってウロウロするなんてもってのほかだ。命が惜しければ明日はじっとしてなさい」
・・・でも明日はバンコクに飛ぶんです。そこから日本に帰る予定で。
「そうなの? でも明日はバスも動かないと思うよ?」

念のためバス停を見に行ったら
『明日はホーリーなので午後からのバスはありません』
と貼ってあった。それじゃあタクシーで行こうと思ったら、運転手さんに
「明日?とんでもないね!」
と断られた。街中が大渋滞、というか道路全体がパーリーピーポーに占拠されて車なんて動かせないのである。うかうかタクシーなんか出したら商売道具をボコボコにされるのがオチだろう。

どうしよう……。

途方に暮れていたら
「じゃあ朝のうちに僕が車を出してあげるから」
と言ってくれた。いいオーナーである。

ホーリーの少年ギャング

翌朝。
ホーリーの朝。
思い出したことがあった。

夜行列車で出会ったバックパッカーのK君のことだ。彼も今夜のフライトで福岡へ帰ると言っていた。ほぼ同じ時間帯のフライトだから
「次は空港で会おう」
と言っていたのだが。バスが動かないことを知っているだろうか。空港への足は見つかっただろうか。

心配になってK君を探した。サダルストリートのどこかにいるはずだと、日本人宿に顔をだしてみたが見つからない。旅慣れた人だからなんとかするだろうけど、やっぱりちょっと気になるなあ。

・・・と、乗っていたサイクルリクシャーが急に停まった。10才~13才くらいの少年が数人、サイクルリクシャーの前にたちはだかっている。運転手と何か話していたが
「マネー、マネー!」
まだあどけない顔で無心してきた。よくある物乞いかと思ったけどそうじゃない。彼らは「武器」を構えていたのだ。色とりどの入った粉を。私たちを脅迫しているのだ。

「マダムどうする? 『金を出さないと粉をぶっかける』って言ってるよ」
運転手がうんざりした顔で振り向いた。
「俺、朝から粉まみれになんのヤだよ。お願いだから出してくれよ。10ルピーでいいからさ」
・・・くっそー!
と思ったけど、私も粉まみれはイヤである。今から飛行機に乗るんだから。

偽ガイドには勝った私たが、ホーリーの少年ギャングには負けてしまった。

帰国の途

結局、K君とは会えずじまいだった。空港にも来ていなかった。ちょっと心配だけど、ホーリーを楽しんでから帰国することにしたのだろうと思うことにした。

飛行機は無事に飛び、私はインドを出てタイのバンコクへと帰ってきた。

3週間ぶりのバンコクが、今までとはまったく違って見えた。キラキラ輝いて見えた。
「きれいだー!」
町がゴミだらけじゃない!
建物も清潔だ!
探さなくてもトイレがある!
「立ちションしてるオッサンがいない!」
もうアレを見ないでいいのだと思うと心底ホッとした。

ホッとするあまり、また下痢になった。馴染みのあるタイに戻ってきたことで、緊張の糸が切れ、身も心もぐったりしていた。
その夜は宿のテレビでぼんやりとNHKを見て過ごした。
環境対策の特集をしていた。

「観光地の◯◯では『ベロタクシー』が活躍しています」
「ベロタクシー?」
「自転車タクシーのことです。排気ガスを出さず環境に優しい、未来のためのタクシーです」
「わあ、まさに究極のエコロジー! 先進的ですね!」

思わず笑ってしまった。どう見てもそれは、さっきまで乗っていたサイクルリクシャーだったからだ。

サイクルリクシャーは稼ぎが悪い。体もきつい。だから
「一生懸命に貯金をしてる。いつかオートリクシャー(三輪バイクのタクシー)を買うんだ」
と、胸を張って教えてくれた運転手さんがいたっけ。彼らは今日も汗水たらし、懸命にペダルを踏みしめていることだろう。自転車タクシーが「先進的」だなんて聞いたらどんな顔をするだろうか。

3週間前、バンコクに来たときの私は鬱々としていた。自分がどうしてここにいるのか、どうして旅に出たいのか、本当に旅が好きなのかさえよくわからなかった。ヘタレで泣き虫で、英語が得意じゃないからあんまり人と話しもできないで。

だけどそんなことどうでもよくなった。私はリア充の若い子みたいな旅はできないし、旅慣れることは一生ない。立派な旅の目的もなければ、ひたすらに楽しむことさえないかもしれない。いつまでもヘタレで、泣き虫で、お腹をこわして、どこでも迷子になっているだろう。

でも、それでいいんだ。今回の旅は考える旅だった。もともとがアホだからあんまり難しいことは考えられないのだけど、それでも、旅に出なければ知り得ないことを知り、感じられなかったことを感じ、それまで考えたことのなかったことを考えた。

ネパールでもインドでも、たくさん日記を書いていた。私の旅は・・・書くための旅なのかもしれないと、このとき初めて思った。


18. ネパール・インド・ガンジス川(4)バラナシ

聖なるガンガー

宿をでて、熱気あふれる市場を通り抜けると、行く手に幅広い川がみえる。
午後の光をうけてキラキラ輝く。
聖なるガンガー。
ガンジス川のことだ。

「死体と汚物が並んでぷかぷか浮いている」
「あまりの汚さにコレラ菌でさえ3時間しか生きられない」
「外国人がガンジス川で泳ぐとほぼ全員が赤痢にかかる」
などなど、えげつない話ばかり聞かされていたのだが、カトマンズの真っ黒なドブ川を見た後だったので
「案外、きれいやん?」
というのが最初の感想だった。チャイ色の大河。
だけど……きれいとか、きたないとか、そんな尺度では測れないことに、やがて気がつくのだ。

ガンガー(ガンジス川)は聖なる川だ。火葬した遺灰をこの川に流せば輪廻から解脱できると言われている。そのため多くの人々が遺体を担いでやってくる。

遺体は一度ガンガーの聖なる水で清められたあと、乾かして川岸に並べられる。組んだ薪の上に遺体を置き、さらにその上にまた薪を置いて火をつける。

炎が勢いよくまわる。熱風で衣がはがれ遺体は容赦なく剥きだしにされる。いっぱいに飾られていたマリーゴールドは熱風に吹きあげられる。オレンジ色の花が散らばっていく。

炎と煙がごうごうとたちのぼる。一人の人間の体が燃やされ灰になってゆく。火葬場には絶えず煙がたちこめ、なんともいえず金くさいような臭いが漂っている。

燃え尽きるには3時間ほどかかる。誰もが無言で見守っている。煙たい風の中を犬と子供たちが無邪気に走りまわっている。

灰はガンガーへと流される。
漆黒の灰。
暗い川へと流れてゆく。

妊婦と子供と蛇にかまれて死んだ人は火葬せずにそのまま沈める習わしだ。ときどきプカプカ浮いてくる。ガンガーは死に満ちた大河である。

だが、ガンガーに満ちているのは死だけではない。火葬だけではない。

ガンガーは日常の洗濯場でもある。
世界一暗いこの川で、主婦たちはTシャツやパンツをじゃぶじゃぶと洗う。

その隣りは沐浴場である。聖なるガンガーで沐浴すればすべての罪が清められるという。そのため国中のヒンズー教徒が続々と集まってくる。
祈りを捧げる男がいる。
乳房はだけて水へもぐる老婆がいる。

そして世界一清らかなこの川で、普通にシャンプーしているおじさんもたくさんいる。雰囲気は大衆浴場である。子供たちにとってはプール代わりだ。飛び込んだり泳いだり、楽しそうに大騒ぎしている。

私たち日本人には、遺灰や死体やウンコがじゃんじゃん流れてくる川で泳いだり洗濯をする気持ちはどうしてもわからない。だがヒンドゥー教徒の人々にとって、この川の水はどこまでも神聖で清らかなものなのだ。

こうしたガンガーの営みをじっとみつめながら、水の色を表現してみようと何度思ったことだろう。だけどダメだった。たった3日や4日では、あの色を言葉にすることはできない。

黒と緑。茶色と砂色。空のブルーと雲の白。
オレンジの花。赤い顔料。泡だつ波しぶき。
混沌。
カオス。
すべての色をまぜあわせた絵の具の水入れ。
生と死。聖と俗。祈りと現実。

すべてがぐちゃぐちゃに混ざっていっしょくたに水にのみこまれ、流されてゆく。
大いなるガンガーを朝日が照らす。
そうしてまた新しい一日がはじまる。

沐浴をする人

ガンジス川の洗濯風景

インドの街角

インドの都市はどこでもそうだと思うんだけど、ヴァラナシはとにかく人口密度がハンパない! どの道もどの交差点も人でごった返し、町そのものが通勤ラッシュ時のホームみたいなものだ。

そのわりにはトイレとゴミ箱がぜんぜん無い。足りないというより、存在しない。当然のことながら道はゴミだらけ、立ちションだらけである。
「そのへんでオシッコしているおじさんを見ないで済むならお金払ってもいい」
っていう気持ちになる。
カオスである。
これぞインドである。

そんな中、牛たちは実に悠々と暮らしている。ヒンドゥー教において牛は大切にされているから、牛たちはどこでも出入り自由、好きなように歩きまわれるのだ。

列車を待っていると改札口からにゅうっと入ってきたり。
道路の中央分離帯でぐうぐう眠って渋滞を悪化させたり。
マイペースにも程がある。

ハエがわんわん飛んでる道ばたの八百屋にも牛がいた。トマト、にんじん、マメ、じゃがいも。
「何を買おうかな・・・」
と、まるで買い物客みたいな顔で物色をしている。とくに神聖とされている白い牛である。神様のお使いである。八百屋のおじさんはのんきに昼寝をしていたが、牛がカリフラワーの葉をバリバリ食べ始めたことに気づいて飛びおき、牛を追い払った。

八百屋のむこうには物乞いが並んでいる。老婆が互いのシラミをとりあっている。やせた野良犬が寝そべっている。その向こうにもまた同じような八百屋がある。さっきの白い牛がやってきて、こんどはトマトを盗み食いしはじめた。店番の少年が棒切れでひっぱたいて追い払った。神様のお使いなのに。

牛、走り回る子供、陰干し中のご遺体、観光客

牛、走り回る子供、陰干し中のご遺体、観光客。

この写真を撮った次の瞬間、牛は階段で足を滑らせてコケていた。

リクシャーの値段

町中の移動にはリクシャーを使った。簡易タクシーみたいなものだが、2種類ある。オートリクシャーは三輪バイクに座席がついたもの。サイクルリクシャーは自転車である。

私は日記にはっきりと書いている。
「サイクルリクシャーは嫌いだ」
と。
サイクルリクシャーの運転手はオートリクシャーよりも大変だ。自転車のペダルをよいしょよいしょと漕いでいくのだから。が、こちらだって手加減している余裕はないから
「20ルピー? この距離なら15が相場でしょう」
とか交渉しなくちゃならない。

でも、値切りながらうんざりするんだ。2004年当時、15ルピーといえばたったの35円、20ルピーでも45円ほど。いったい私は何を値切っているのだろう?

彼らの賃金と自分の日給とをつい比べてしまう。彼らが汗水たらして稼いだ給料と、私の退屈な一日の給料。そこには天地の開きがある。ざっと見積もっても30倍くらい違う。そんなのはおかしい。絶対におかしい。同じ人間なのに。

私はたまたま豊かな日本に生まれたから、運がよかったから、物価が違うから、違う国だから。だから仕方がない、経済ってそういものなのだ……とは、どうしても思えない。

テレビで見ているだけならそこまで考えないだろう。でも実際にサイクルリクシャーに乗ってゴミだらけの裏町を走ってみるとどうしても納得できなくなる。薄いサンダルを踏む足や、力のこもるふくらはぎを見てしまうと、どうしても罪悪感にかられるのだ。たった5ルピーを値切ってしまったことに後ろめたさを感じるのだ。
「お金って何なのだろう」

考えても仕方がないことを考えてしまうから。
憂鬱になってしまうから。
だからサイクルリクシャーは嫌いなのだ。

むきだしのインド

インドに来るといろんなことを考えてしまう。インドではすべてがむき出しだからだ。死体も火葬も立ちションも、生も死も、日本ではなるべく隠そうとするもの、見たくないものがすべて白日のもとにさらされる。

欲望をあらわにした男たちは朝でも昼でも遠慮なくシモネタをとばしてくるし、えげつないほどの金額をふっかけてくる。時には金を出せとナイフをつきつけられることもある。あちこちの壁には行方不明になった女の子の写真が貼られている。

貧しさもむきだしだ。
骸骨のようにやせ細った老婆に
「なにか食べるものをくれ。もう3日も食べてないんだ」
とせがまれる。

10才に満たない女の子がはだしで物乞いをしている。片手に赤ん坊を抱き、ボサボサの髪を振り立ててツアーの観光客にすがりつく。
「マダム、マダム、プリーズ!」

川岸でクッキーを食べていたら一つ落とした。犬に投げてやろうとしたら
「俺にくれよ」
と汚れた手がのびてくる。男は野良犬と競いあってゴミを漁っていた。

両側に物乞いがぎっしり並んだ道もあった。
「くれ。くれ」
「金をくれ」
「食べ物をくれ」
「困ってるんだ」
「死にそうなんだ」
「腹が減ってたまらないんだ」
「赤ん坊がいるんだ」
たくさんの手がこちらにむかってのびてくる。やせ細った手。真っ黒に汚れた手。あちこちが欠けている手。しわくちゃの手。どれもたくましく生きている人間の手だ。私と同じ人間の。

だが半端な同情から一人に小銭を恵むと大変なことになる。
「俺もくれ」
「もっとくれ」
「マダム、マダム!」
「もっと、もっと、もっと、もっと!」
瞬く間にぐるりと取り囲まれてしまう。まるでゾンビ映画のよう。

しかし、私は気がついた。
頭をあげていれば彼らが目に入らないことに。

物乞いの多くは背が低い。年寄りか子供か障害者だからだ。顔をあげてまっすぐ前だけを向いていれば彼らの顔は見えない。見えなければ無視することも簡単だ。相手にしなければ彼らもあきらめて寄ってこない。彼らを見なければいいんだ。

見なければいい。
見て見ぬ振りをすればいい。
だが、それでいいのかと、考えてしまう自分がいる。

考えれば考えるほど落ち込んでしまう。
ほかの旅行者はみんな楽しそうに観光を楽しんでいるようだが、私はあんなふうにはできない。
周囲のバックパッカーたちに
「深く考えるな。楽しめ。せっかくの旅なんだから」
と何度いわれても、やっぱり違うと思った。考えることが私の旅だ。考えるためにインドへ来たのだ。

……こうなることは最初からわかっていた。
むき出しの生と死を見ることが怖くて、考えることが怖くて、だからあんなにも憂鬱だったのだ。インドへ行きたいような、行きたくないような、呪われたような気持ちになっていたのだ。それでずっとお腹をこわしてた。

インドへ行かなくても、隠されたものを見つめなくても、生きていくには困らない。知らなくても何も変わらない。考えたってどうせ何もできない。頭を上げて前だけを向いて生きていけばいいのだ。そうすれば、地面に近いところで手をのばしている貧しい人たちの表情は見ないで住む。
わかってる。
それでも私は見なくちゃいけない気がしたのだ。
たとえ何もできないとわかっていても。

プージャの炎

夜のヴァラナシでプージャを見た。プージャとは、ガンジスの川辺で毎夜おこなわれる礼拝だ。バラモンたちが聖なる川に火を奉り、祈りを捧げる。

私も火のついたろうそくを川に流した。暗い水にゆらゆらと浮かぶ祈りの火。風に吹かれても消えずに漂いつづける様子は幻想的だった。

ネパールで親切なおじさんのバイクに乗せてもらったとき、電気のない村の人たちが焚き火で暖を取っていた。あの心地よい炎と同じ赤い火が、テロリストの手に渡ればバスをまっ黒焦げにする武器となり、ガンジス川では遺体を浄め、プージャでは祈りの火になって流れていく。

私たちは死んだらどこに流れていくのだろうか。ガンジス川の流れがとどまらないのと同じように、私たちもとどまることなく漂いつづけるのだろうか。

アフリカの大地では死は自然の一部であり大地に還ることだった。だがインドでは、ガンジス川のほとりでは、命は一定方向に流れていくもののように感じた。

流れていく。
流れていく。
次の生にむかって。
次の死にむかって。
これが輪廻ということなのだろうか。

夜行列車

ヴァラナシからは夜行列車でコルカタ(カルカッタ)へ向かう。この列車がインドで唯一のんびりした思い出かもしれない。

列車で日本人のバックパッカーと出会った。同い年だし話がはずんだ。K君は料理人の修行のために世界中をまわり、最後にインドを通過して2年ぶりに日本へ帰るところだという。
「ああ、もうちょっとで家に帰って明太子食べられるんだ。明太子ー!」
たまらない様子で叫んでた。福岡県民らしい。

私たちはいろんな話をしたが、自然に、ガートでみた火葬のことや、貧しい人々の話になった。
「考えようによっては、僕らの富は、便利な暮らしは、彼らから吸い上げたものだ」
K君の言葉が忘れられない。世界はこんなにも不均衡で不平等だと、富める側の痛みをもって語りあったあの夜が忘れられない。

私の席は3段ベッドの一番上だった、すばらしく寝心地がよかった。
朝はお茶の売り子の歌うような声に起こされる。
「チャイ・コフィ(紅茶、コーヒー)、チャイ・コフィ、チャイ・コフィ…」
熱いコーヒーとゆで卵を買って朝ごはん。おいしかった。

車窓にインドが流れていく。
レンガの建物や森や煙突や、田んぼやヤシの木や、犬や牛や人や、トラクターを運転するお父さんや、ピンクのサリーを着たお母さんが景色とともに飛んでいく。
窓の向こうにインドが流れていく。

マニカルニカー・ガート

私は旅をしている。
彼らも旅をしている。
みんな旅をしている。
人生を旅して、いつかみんな灰になって、ガンジス川にたどり着く。
聖なる川の彼方に流れていく。
そう思うと心が安らいだ。
なにも怖くないような気がした。


17. ネパール・インド・ガンジス川(3)いざ、インドへ!

インド国境

スノウリの国境。いよいよここからインドに入る。

ついこの間までは陸の国境越えに憧れたりもしていたが、今回はそれどころじゃない。
なにしろインドである! しかも悪評高いスノウリ国境だ。緊張感が違う。

イミグレーションはそのへんのタバコ屋みたいな建物で、店番みたいなおっさんに、ポン!とスタンプ押してもらって
「ウェルカム トゥ インディアー」
あっさり終わった。

入国は簡単だったがその後がとんでもなかった。

前日に手配した切符をもって長距離バスの停留所へむかうと、いろんな人がやってきて
「その切符はバスナンバーが書いてないから無効だよ。もう一度、買いなおして」
「荷物、トランクに入れたの? じゃあと140ルピー追加ね」
さくさくさくさく、お金を騙し取られていく。

こいつらはほとんど強盗みたいなもんで、払わないと先へ進めない。中にはナイフ持ってる奴もいて、
「あ、これは本物の強盗?」
首をかしげることもあった。もはや正規料金なのかワイロなのか強盗なのかさっぱりわからないのだ。総額いくら毟りとられたのか計算もできない。むちゃくちゃである。すっかり憔悴した。

ヘルプミー!

国境で乗り換えたバスでヴァラナシ(ベナレス)へ向かう。外国人は私を含めて3人乗っていた。3人とも20代女子の一人旅。だが1人は完全にラリっていた。目の焦点はあってないしサンダルは片方だけ、服はギリギリ着ているという状態で、周りのインド人たちもドン引きしていた。ハイになってる時は

「あたしこの後、リシュケシュに行くのよお。あんた一緒に行かない? リシュケシュよお、知らないのお? リシュケシュはヨガの聖地で、とってもサイコーなのよお、毎晩パーティがあるんだってば、うふふ」

みたいなことを英語とドイツ語でまくしたてていた。私はトラブルに巻き込まれたくなかったので、なるべく彼女から距離を置いていた。ところが事件は、彼女とはぜんぜん関係のないところで起きてしまったのだ。

事件はドライブインのトイレで起きた。普通、ドライブインのトイレなんて外国人向けに作られてはいない。たいてい穴と間仕切りがあるだけだ。

だが一度だけ、ドアのあるトイレが出現したのだ!
しかも!
鍵がついている!
遠くからそれを見てとった私は、嬉しさのあまり走っていって一番にドアのあるトイレに籠もった。

そうしたら。
開かないのである。
鍵(チェーン)が知恵の輪のようにはまりこんでしまって、押しても引いても動かない。
なんということか。
閉じ込められてしまった。

暗くて臭くてハエがぶんぶん飛ぶトイレで考えた。もうすぐバスは出発するだろう。騙されて乗ったバスだから、私なんか置いていかれるに違いない。そのうち夜がきて……食べるものも飲むものもなく……ハエだらけのトイレで私は……このまま、誰にも気づかれないまま……。

「ヘルプミー!」
叫んでみた。扉をがたがたゆすってみた。そしたら、こんなインドの片田舎でトイレに閉じ込められてヘルプミーなんて言うてる自分がおかしくて、おかしくて、笑いが止まらなくなってしまった。
……私ってば、みっともなーい!
ただただ、笑えた。

「人間は、生きるか死ぬかどうしようもなくると笑う」
というのは真実なのだと悟った。

ヘルプミーが聞こえたのか、周りの人が気がついて、外から数人がかりで引っ張ってくれた。それでドアはようやく開いた。「生きながらえた」と思った。

明るいところへ出てから気づいたのだが、指からだいぶ血が出ていた。力いっぱいドアと奮闘した時に擦れたのだろう。本当に、インドで鍵のあるトイレになんか入るものじゃない。

いろいろあったが、ネパールを出てから12時間後、夜にはヴァラナシ(ベナレス)に到着。なんとか適当な宿をみつけて転がりこむことができた。ホッと一息というところ。お風呂上りに缶ビールをラッパ飲みしつつ、ケガした指にバンソウコウを貼りながら、
「インドに負けないぞー!」
と改めて誓うのであった。

ヴァラナシはガンジス川沿いの町だ。有名な火葬場のある町だ。
インド・オブ・インド。
これぞインド。
……恐怖しかない。
飲まないやってられないほど心細かったのである。

ドライブインの食事

蚊柱の宿

ヴァラナシの宿は強烈だった。
最初の夜はなんともなかったが、2日目の夜、
「ただいまー」
って帰ってきたら、玄関がなんとなく薄暗くて霞んでいる。「電球が切れそうなのかな?」と思いながらよく見たら・・・

蚊!
蚊!
蚊の大群!
見たこともないほどの蚊の大量発生!
薄暗く見えたのは、蚊の大群のせいで視界が霞んでいるせいだった。

「ぎょえええ!」
叫んでしまった。逃げ出したかった。が、もう夜だし逃げこむあてもない。思い切って玄関を駆け抜けた。共同リビングでは宿の主人と友達が2人で酒を飲んでいた。その部屋もまた蚊に占領されて薄ぼんやりと暗かった。
「ああ、おかえりなさい」
振り向く主人。
「蚊が多いから気をつけてね」

いや、多いってレベルじゃないだろ!
もはや災害クラスだろ!
蚊柱の中に住んでるみたいなもんだろ!
なんであんたたち普通に酒のんでおしゃべりしていられるの!?
と、聞きたかったけど口をあけると蚊が飛び込んできそうだから話もできない。

廊下をダッシュし、階段を駆け上がる。
幸いなことに2階は明るかった。まだ蚊はいたけど、大群ってほどじゃない。耐えられるレベルである。

その夜は頭からシーツをすっぽりかぶって無理やり寝た。シーツのあちこちに血の染みがぽつぽつと付いてるのが不気味だなあって思ったけど、宿泊客が蚊をつぶした跡なのだと判明した。


16. ネパール・インド・ガンジス川(2)カトマンズ

再びカトマンズ

帰ってきたカトマンズはやっぱり情緒ある素敵な町だった。今度こそ一人でゆっくり散策しよう!

穏やかな朝霧につつまれた寺院。歴史ある通りに立って空を見上げると、まるで魚眼レンズをのぞいているかのような屋根が広がっている。

道端にはいくつもの祠がある。ネパール人は神様とともに生きているので、神様のお家もそこらじゅうにあるらしい。花や食べ物や、ついでにゴミまで供えられている。古くなったお供えがゴミになったのか、道端のゴミが混じっちゃったのかは知らないけど。

ダルバール広場には生き神様が住んでいる。女神の化身と崇められる少女クマリである。大事な儀式をつかさどり、成長して初潮をむかえると引退して、また次の少女がクマリに選ばれる。

クマリの館を見学したとき、自称ガイドの男が「クマリに会わせてやる」言ってきた。いくらかのお金を払うと
「クマリ、お顔を見せてください!」
男は建物にむかって大声で呼んだ。

すると2階の窓際に、ひらりと少女があらわれた。6歳か7歳くらいの女の子。春風のような軽いみごなしで窓枠にとびのり、わずかに身を乗り出した。全身に赤い服を着て、あどけない顔には大きな隈取のある化粧をして。

私はあらかじめ教えられた通りにお辞儀をした。女の子はひらりと身を翻して部屋の中に戻っていった。きつい隈取に覆われてはいたけれど、子供らしい明るい顔が忘れられない。神様と呼ばれていても生身の女の子だ。これからどんな人生を送るのだろうと思った。

ラクシュミのヘンナ

以前、ネパールはどんな所かと聞かれたとき
「マイルド版インド」
と答えたことがある。インドの隣の国でやっぱりカレーを食べている、だがネパールのカレーはあんまり辛くない。ネパール人はインド人と似ているけれどもうちょっとマイルドだ。目つきもそんなに怖くないし、ボッタクリ度合いもマシ。何より優しい人が多かった。

キルティプルという街を歩いていると、高校生くらいの女の子たちが楽しそうに集まっていた。あんまり楽しそうなので声をかけてみたら
「いっしょにやる?」
「こっちにおいでよ!」
と仲間に入れてくれた。

少女たちがやっていたのはヘンナ(ヘナタトゥ)だった。植物のペーストをつかった伝統的なボディペインティングだ。
「ほら、やってあげる!」
ラクシュミ(これは苗字かも)という女の子が私の手をとり、細い枝をつかって模様を描いてくれた。

描いてもらっているあいだも、女の子たちはクスクス笑ったりしゃべったり怒ったりと忙しかった。あまり言葉は通じなかったけれど「あ、今恋バナをしてるな」とくらいはなんとなくわかった。
「アイツはべつに彼氏じゃないって!」
とか言うときの表情は万国共通だ。

一人の子が
「あなたって少しラクシュミと似てるわね!」
と言いだした。うれしかった。ラクシュミもはにかみながら
「じゃあ、私たちは姉妹ね」
と言ってくれた。菜の花みたいに可愛らしい笑顔だった。

ラクシュミは30分ほどかけて私の左手にたくさんの葉っぱや花を描いた。
「しっかり乾いてから洗うのよ」
と教えてもらったけど、私はそのあとカトマンズの宿まで帰らなくちゃいけなくて、左手をまったく使わないわけにもいかないからちょっと困った。あと、お腹をこわしてものすごくトイレに行きたかったので、ヘンナをしてもらっている30分は実は拷問であった。

夜になって、しっかり乾いたヘンナを流したら、オレンジ色の美しい模様があらわれた。憂鬱な気持ちを洗い流すと、菜の花みたいに可愛い女の子が現れたみたいに。

遺灰を蹴ちらす

ネパールではいくつかの寺院を訪れたが、最後に訪れたのがヒンドゥー教のパシュパティナート寺院だった。敷地の中にガンジス川の支流が流れており、火葬した遺灰をその聖なる川に流すという。異教徒は寺院には入れないけれど、離れた所から火葬場を望むことはできた。

聖なる河は、衝撃的なまでに真っ黒だった。水量が少ない季節なのだろう。川幅もなければ深さもない、こぢんまりとした川の水はどす黒く淀んでいる。聖なる川だと知らなければドブ川にしか見えない。むしろ、うちの近所のドブ川のほうがよっぽど清流だ。

川岸の数カ所に男性たちがあつまり、遺体を荼毘に付している。薪のはぜる音が聞こえる。もうもうとたちのぼる黄色い煙の臭いがここまで漂ってくる。

遺体を焼く係の人が淡々と仕事をこなしているのが印象的だった。遺体が燃え尽きると、寺男みたいな人が箒をもってきて灰を川へ掃き落としていった。遺体の灰も薪の燃えカスもいっしょくたに、ざっざっと箒で掃いて、真っ黒い水に掃き落としていく。

次に寺男はバケツの水をぶちまけてその場を洗い流し、それでもしつこく地面にこびりついた灰を乱暴に足で蹴散らしていた。あとには何ひとつ残らなかった。遺灰は真っ黒い水に飲みこまれ、ゴミと一緒に浮いたり沈んだりだりしているのだろう。
・・・人間はこんなにも、何にもなくなってしまうのだ。

右下に座っているのはサドゥー(修行してる人)

ついにエベレストを見る

ネパールに来てから10日。私はまだ一度もエベレストを見ていないことに気がついた。(バンコクからのフライトでチラリと見えたけど、あんなのはノーカウントだ)わざわざポカラくんだりまで足を伸ばしたのに、天気がわるくて、どっち方向にヒマラヤがあるのかすらわからないまま終わった。このまま帰国したらアホである。

一度でいいからちゃんとエベレストを見なくては!
そう思って、ネパールを出る前日ギリギリにマウンテン・フライトに参加した。セスナ機で空から山を見るフライト・ツアーだ。

少々曇っていても、雲の上に出ればそこは青空。
「世界の屋根」が広がっている。
ヒマラヤ山脈だ。
エベレストだ。
神々のおわします山だ。

神々しい山並みに「これで思い残すことはない」と思った。

私はカトマンズを出てバスに乗り、南へと向かった。
一路、南へ……インドへと。

お釈迦様のうまれた土地で

体調が悪く、憂鬱で、あんなにも怖がっていたのに。それでも私はインドに行くのをやめようとしなかった。どうしてかはわからない。とにかくネパールをバスで南下して陸路でインドに入ることに決めた。

ネパールとインドの国境近くにルンビニがある。ブッダ生誕の地だ。お釈迦様がうまれた聖地だからご利益があるだろうと思って寄り道をした。だが残念ながら、あんまりピンとこなかった。
古い地層にうっすら残る足跡を指差して、
「これがブッダの足跡だ!」
と言われても、そんなん、絶対ウソやん。

聖園のゲートをくぐって町へ戻るバス停に向かった。小さなチャイ屋でおばちゃん達とおしゃべりしながらバスを待つ。

「へーえ、日本から来たのかい」
「ルンビニは気に入ったかね」
「バス? ああ、もうじき来るだろう」
「あと5分くらいかね」

地元民のいうことだから信用して待ち続けた。
あと5分。
あと5分。
あと5分。
チリリリン、とサイクルリクシャー(自転車タクシー)がベルを鳴らして私を呼んだ。
「あんた馬鹿だなあ、バスなんか来るわけないよ。6時までで終わりなんだから」

なんだってー!
騙しやがったなー!
騒いでいたらチャイ屋のおばちゃんはコロコロ笑った。

「バザールまで行けばバスがあるかもしれない」
ということでリクシャーでバザールのバス停まで連れていってもらった。半袖で寒がっていたら、運ちゃんがぼろぼろのジャケットを貸してくれた。

ネパールの夜は早い。日が沈むと即座に夜がやってくる。電気があまりないから日没と同時に閉めてしまう店も多い。バザールも店じまいだ。つまり通勤ラッシュにぶち当たったのである。

町へのバスは殺人的に混みあっていた。どれくらい混み合ってるかって、バスの中がまったく見えないほどである。バスの屋根だけでも30人、バンパーにしがみついてる人が20人、窓枠にぶら下がってる人たちなんてもうちょっと数えきれない。

「これは乗れないなあ」
運ちゃんがぼそりと呟いたとき、救いの神があらわれた。
「君、町へいくの?」
穏やかな中年のおっちゃんだった。町内会の副会長とかしてそうな雰囲気の。彼は
「自分もバイラワに帰るところだから乗せていってあげるよ」
と言う。冴えないおっちゃんがヒーローに見えた。
だって彼は
「お金? 要らないよ。ただの人助けだよ」
と言ったのである!

常識的に考えたらちょっと危険な橋である。おっちゃんが善人である保証はない。悪巧みや下心があって近づいてきたのかもしれない。私だって幼い頃から
「知らない人について行っちゃいけません」
と親に教えこまれてきた。が、こんなネパールとインドの国境近くの村に知ってる人なんかいるわけがない。野宿して蚊に刺されてボコボコになって遭難死したくなかったら、冴えないヒーローのバイクに乗るしかなかった。

バイクは町に向かって一目散に走り出した。街灯もない田舎道だ。あまりにも真っ暗なので、バイクはちょくちょく牛やヤギの群れに突っ込んでいく。でもおじさんは慣れたもの! 器用によけて一頭も轢かなかった。

日暮れ直前のルンビニー。小僧さんも帰路を急ぐ

時折、集落を通りかかると、ぽつぽつと赤い火が見えた。電気が通っていないのだろう。暗闇に浮かび上がるロウソクの炎。家族でかこむ焚き火の炎。火とはあんなに赤く、あったかいものなのだと思った。

戦い滅ぼし、バスを焦がすのも。
人間を火葬にするのも、村の燈火も。
同じ火なのだ。
2500年の昔、ブッダとその弟子たちもああやって火を囲んでいただろうか。
夜空をみあげれば、細い月のまわりを小さな星たちが取り巻いていた。

おっちゃんは本当にタダでホテルまで送ってくれた。お礼さえも受け取らず
「じゃ、よい旅を」
と言い残し、バイクをUターンさせて町まで引き返した。彼は真のヒーローだった。


15.ネパール・インド・ガンジス川(1)チトワン

2004年あてのない旅 ネパール・インド(1)

旅行は楽しいものだ。たとえ体調を崩してもボラれても嫌なことがあっても、帰国すればすべてが楽しい思い出になる。

……という、わけではない。

ぜんぜん楽しくない旅もある。「楽しくないのにどうして行くんだ」と問われても答えるのが難しい。自分でもわからないけれど、まるで磁石が勝手に動くみたいに、どうしても惹きつけられてしまう旅があるのだとしか。

それは呪われたような旅だった。最初から最後までずーっとお腹をこわしっぱなしで体調が悪かった。ごはんもあまり食べられなくてずいぶん痩せた。体調が悪いせいで心のバランスまで狂ってしまい、憂鬱が止まらず、メモ魔の私が日記もろくに書けないくらいふさぎこんでいた。これっぽっちも楽しくなかったのだ。

でも、そんな旅でも、私にとって大事な、そして必要な旅だった。
苦い薬のような旅だった。
なぜ旅をするのかという問いかけの旅だった。

どこへ行くのか

念願のウズベキスタン旅行を終えた私はぼんやりと帰宅した。サマルカンドで赤いばらを見たとき「これで終わった」と思った。何かが燃え尽きてしまった気がした。

だが旅をやめることはできなかった。一種の中毒なのだろう。仕事が休みになると、どこかへ行きたい、日本をぬけだしたいと、いてもたってもいられない気持ちになる。長期休暇をもらえる2月に入ると追い立てられるように飛行機にとび乗った。

いそいそとバンコクまで来たのはいいが、さていったいどこへ行こうというのか。なにをしに、なにを目的に旅をしようというのか。もうあこがれのサマルカンドは済んでしまったというのに。

こうなると本当に旅に出たかったのかどうかさえ疑わしい。旅が好きなのかどうかもわからなくなった。

カオサン(安宿街)のおんぼろベッドにごろりと転がって考えた。
私は本当は、旅好じゃないんじゃないだろうか?
本当は、旅なんかに出たくないのじゃないか?

少なくとも旅に向いてないだろうと思う。だからどこへ行ってもお腹をこわすし、どこへ行っても道に迷う。私みたいなヘタレはおとなしく日本にいればいいのじゃないか。

いくらか慣れたとはいえ私は相変わらずの泣き虫のヘタレであった。その証拠に旅立ってすぐにおなかが壊れた。おなかは「日本に帰りたい」って言ってるのかもしれない。自分の部屋にひきこもって本でも読んでいたいのかもしれない。学校に行きたがらなかった子どもの頃のように。

なんてアホなことを考えていたのだろう!

 

インドに行きたくない!

行きたい所も目的もないなんて真っ赤な嘘。その証拠に私は出発前にインドのビザを取得していた。インドに行ってガンジス川を見たかったのだ。

でも勇気がなかった。
怖かった。
インドだけは怖かった。
だから自分に嘘をついていたのだ。

インドはそれまでにも2度、ツアーで訪れていた。一度は友人がおなかをこわしてお医者さんを呼ぶはめになった。2度目はR子と激安ツアー。3万円くらいのツアーで、なんかいろいろむちゃくちゃだった。

ぜんぜん知らないわけじゃなく、半端にかじっているからこそ怖いのだ。インドのおそるべき生命力、圧倒的なエネルギー。ゴミだらけの町、隙あらばむしり取ってやろうとするデリーの悪いやつら。

だがその恐ろしさは強烈な魅力と紙一重だ。

インドの魅力はありえないことだらけの非日常さにある。日本の常識はいっさい通じず、なにが起こるかまったくわからない。おそろしく汚くて、おそろしく人間だらけで、おそろしく……おもしろい。

わくわくするようなおもしろさではなく、ずるずると引きこまれて抜け出せなくなる底なし沼のようだ。怖いもの見たさ、といってもいい。こんなにも好奇心をそそる国はほかにない。

強力な呪いにかけられたかのように、ぐいぐいとインドへ引っ張られているのを感じていた。
行きたい。行ってみたい。
でも怖い。行きたくない。
絶対に行きたくない。
でも行かずにはいられない。

安宿のベッドに寝っ転がってしばらく悶々としていたが、思い切ってえいやっと身を起こして旅行会社に行った。
「インド行きの飛行機とってください!」
「OK!」
旅行会社のお姉さんは二つ返事で引き受けてくれたが、しばらくパソコンと格闘したあげくに
「ごめん、ムリ! なんかしらんけど飛行機がない!」
断られた。私は少しホッとした。猶予を与えられたのだ。
「じゃあ、ネパールで」
「OK、とれた!」
そんなわけで私はまずインドの隣国・ネパールへ飛ぶことにした。

ネパール

ロイヤルネパール航空が私をカトマンズへと運んでいく。何気なく窓の外に目をやると、雲から山が突き出しているのが見えた。飛行機と同じ高さの空に、雪をかぶった山がひょっこり浮かんでいる。グラスに浮かぶ氷のよう。なんてきれいなんだろう! あれがヒマラヤか。

ネパール入国には時間がかかり、疲れていたので声をかけてきた客引きについて行っててきとうに宿を決めた。庭先でヤギさんを飼っている。かわいらしい。

翌朝さっそく町の散策にでかける。カトマンズは情緒にあふれたすばらしい町だった。いっぱい写真を撮りたくなる町だった。

なのに!
ああ、それなのに!

おかしな日本人旅行者につかまってしまった。
「せっかくだから一緒に観光しましょうよ!」
化粧と香水の匂いがきつい女の人で、ついてないことに差別主義者だった。なぜネパールまできてなんで関西ディスりや障害者差別発言を聞かされなくちゃいけないのか?

腹が立ったので、これまでの人生で使ったことがないほどコテコテの関西弁でケンカ別れをしてやった。ぐったりした。こんなにきれいなダルバール広場でなぜ日本人相手にすり減らなくちゃいけないんだろう。

疲れ果てて宿に帰ったら夕食のカレーに肉が入っていた。牛でもないし鶏でも豚でもない。何の肉だろうと主人に尋ねたら、
「ヤギだよ」
と返ってきた。
「ほら、君が昨夜なでてたヤギ」
指差す先には可愛いヤギの頭がさらし首みたいに干してあった。衝撃を受けながらも手を合わせてありがたくいただいた。

山岳地帯のせいかネパールではヤギが好まれている。肉屋の店頭にはよくヤギの頭が飾るように置かれていた。たぶん血抜きをしているのだろうが、なかなかエグい。

そういえば街中で『スター・カフェ』という看板を見つけたのでお茶でも飲もうと入ってみたら、なぜか肉屋で、むくつけき男たちが包丁を振り回してヤギを解体している最中だった。

針のむしろのチトワン・ツアー

カトマンズはとても素敵なのに、変な人のおかげで憂鬱な気持ちになってしまった。このまま観光をつづければあの日本人旅行者に再会しないとも限らない。一旦、よそへ移動しようと考え、旅行会社でツアーに申し込んだ。チトワン国立公園へ行くツアー。

このときバスと宿の手配だけしてもらえばよかったのだが。観光つきのツアーに申し込んだのが運の尽き! どういうわけかイギリス人ツアーにぽつんと一人で混ざることになってしまった。

ツアーは若い男女が3人ずつ、つまり3組のカップル旅行だった。リア充の中に一人で混ざるという、まさに地獄のツアー。針のむしろツアー。初めてツアーバスに乗り込んだ時は車内が凍りついた。
「え、まじで?」
「なんでここに日本人がいるの?」
ひそひそ声がかわされた。視線が痛かった。

「おい、なにを黙り込んでるんだよ日本人!」
空気を読めないガイドがしきりに私を叱咤激励してくれたが、これで落ち込まない日本人がいたらどうかしている。

なにしろ会話に混ざろうにも怒涛のクィーンズ・イングリッシュである。たまに優しく声をかけてもらっても何言ってるかわかんないことが8割。英語じゃないウズベキスタン人のほうがもっとずっと話が通じたのに。あまりのことに熱が出て、半日寝込んでしまったくらいだ。

幸いなことに、針のむしろが気にならないくらいチトワン国立公園は素晴らしかった。野生のトラやサイが暮らしているというジャンングルだ。カヌーやバードウォッチング、ジープでのサファリも楽しかったが、なんといっても象に乗ってのエレファント・サファリが最高だ。

象はあんなにも巨体なのに、道なき道をぐいぐい進んでいく。獣道をかき分け、長い鼻で枝を払いながら。象が払いのけた木の枝が頭上からパラパラと降ってくる。

象たちはおいしそうな草を見つけるたびに一休みしておやつタイムを始める。立ち止まった隙にガイドが
「ほら、あそこにサイがいますよ」
と教えてくれた。木立をすかしてサイの背中が見え隠れする。岸辺にはワニもいた。トラの足跡や爪とぎの跡もあった。強くて大きな象の背から見下ろすジャングルは安全で、まるで違う世界に見える。

象たちは川も平気で渡っていく。川の浅いところはざばざばと波を蹴たてて、深いところは丸太のような足を泥の中にずぶりと沈めて、傾斜もものともせずに進んでいく。急に立ち止まったかと思ったら、ざあざあと滝のようなオシッコをする。

チトワンは朝靄の景色も美しい。早起きをして宿のまわりを散歩すれば、象たちの出勤風景を間近でみられる。象使いに連れられ、赤土の道をぶらぶらと登っていく。象たちの足音も象使いの声も、朝靄と砂煙にすいこまれ、幻のように遠ざかっていく……うっとり見とれていたら、ぬちゃっとしたものに靴をとられた。小山ほどもある象のウンコに片足を突っ込んでいた。

 

ポカラ

ジャングルを堪能したあとは山を見よう。
「ヒマラヤを見よう!」
ということでポカラを目指した。ポカラはヒマラヤの麓の町だ。エベレストのお膝元だ。山を見ようと思ったらポカラへ行け。「ホテルの庭先からでも世界の屋根が眺められる」ともっぱらの噂である。

ところが全然見えなかった。ずーっと雨が降っている。ホテルの庭先から見えるのはどんよりした灰色の雲ばっかり。ぼやっと雲を眺めていたら、ホテルの従業員に声をかけられた。
「そろそろ山にのぼるんでしょ? いいガイド紹介しようか?」
いえ、登山はしないつもりです。
「じゃあ、ハシシ? ハシシなら、いいのあるよ」
大麻。マリファナ。葉っぱ。grass。ガンジャ。ハシシ。どんな呼び方をしようが使い方をしようが違法である。ネパールでも違法のはずなんだけどポカラでは堂々と売られていた。10才前後の子供たちが親といっしょに葉っぱを巻いているのを見た。いい内職なんだろう。

あ、でも、私は大麻はやりませんよ!
「山にも登らない、ハシシもいらない? あんた一体、何しに来たの?」
うーん。何しに来たんだろうなあ。

ぼんやり座って雲を見てるのもバカみたいなので、カトマンズに戻ることにした。
が、当時のネパールはしょっちゅうストライキがあり、予定どおりには進まなかった。私の乗ったバスはうまいこと出たが、1本前のカトマンズ行きは過激派に襲われたらしい。道中、燃やされてまっ黒焦げになったバスの残骸を見た。


14. ウズベキスタン(2)

サマルカンドの赤いばら

ブハラで2泊したあとはまた次の町を目指す。

が、その前にちょっとしたアクシンデントがあった。旅行会社に車の手配を頼んだと話したら、泊まっていた宿の女将に必死で止められたのだ。
「あいつは有名な悪徳業者だよ!」
忠告してくれたのはブハラの名物女将ファティマだった。
「外国人に睡眠薬をのませて財布を奪う強盗なんだ。これまで何人の旅行者が泣かされてきたことか。私が断ってあげるから車はキャンセルしなさい」

女将のファティマは私を救ってくれたばかりか、かわりの宿と車まで手配してくれた。車というのはバングラデシュ人のツアーバスだ。ツアーの相乗りというわけで、なかなか楽しい経験だった。ローカルバスと違ってちゃんと走る綺麗なバスだし、途中で観光地にも寄れたし、大金持ちのバングラディシュ人とも話ができたし、車酔いするバングラディシュ人に酔い止めをプレゼントすることもできた。

目的地に着いたのは午後7時。夕日が沈む頃だった。バスの運転手が立派な銅像を指さして
「さあ、ここがサマルカンドだ! あれが偉大なるティムール像だよ」
と教えてくれた。高校の教科書に1行だけ書いてあったティムール帝国の王。
……来たよティムール。私はついに来た。
憧れのサマルカンドに。

女将が手配してくれた宿から5分も歩けば、サマルカンドの象徴であるレギスタン広場に出る。

美しい、それはもう言葉をうしなうくらい美しい広場だ。広場の三方を囲むマドラサ(イスラム神学校)。おそろしいほど精緻な幾何学模様の屋根の真ん中を、青一色の空がぶち抜く。どんな海よりも青いアムダリヤ川の青の色。青の都サマルカンド。

これこそが15年間ずっとあこがれていた景色だった。ヘタレで泣き虫な私は、ひたすらこの景色のために、エジプトから始まるいくつもの旅に挑戦してきたのだ。お腹をこわして死にそうになったのも、たくさん道に迷ったのも、怖い思いをしたのも、すべてはこのサマルカンドの青い広場を見るためだった。

朝焼けも夕暮れもお尻が痛くなるまでぼんやり座って眺めていても、けして見飽きることはない。もう10月だったが花壇にはバラの花が残っていた。本物の「サマルカンドの赤いばら」だ。

私の中で何かが終わった気がした。これで私の旅は達成された、とも思った。
もちろん行きたい国はまだまだたくさんある。だが、これほどまでに恋い焦がれる場所へ行くことはもう二度とないだろう。地名を耳にするだけで旅に出たくなるような、居ても立ってもいられなくて日本を飛び出してしまうような、そんな気持ちを味わうことはもうない。ため息のでるような、それでいて叫びたくなるような達成感を味わえる旅ももうないだろう。
15年かかった私の旅がとうとう終わったのだ。
そう思うと寂しかった。泣きたいくらい寂しかった。

ティラカリ・メドレセの屋根

再会

私の旅は終わったのだと感傷にひたってみたりしたが、よく考えてみればまだだった。私の旅はぜんぜん終わってなんかいなかった。日本へ帰る前に、ぜひとも行かねばならぬ場所がある。

翌日、私はタクシーをチャーターして
「シャフリザーブスへ行ってくれ」
と頼んだ。運転手は気をきかせてあちこち観光地をまわってくれようとしたが、私はそれを止めて
「バザール(市場)へ行ってほしい」
と伝えた。
運転手は
「市場で買い物でもするのかい?」
怪訝そうに聞いてきた。
「会いたい人がいるのよ」
と私は答えた。

バザールは思ったより広かった。そこいらじゅうに野菜やら果物やらチーズやら、商品が地面に敷き詰められている。踏まずに歩くだけでも一苦労。
ここだ。ここにいるはずなんだ。
「月曜日までシャフリザーブスの市場にいる」
と言っていた。今日はもう月曜の朝だけど、午後のバスに乗るギリギリまで彼女はきっと商売をしているはずなんだ。

バザール中を歩きまわってようやく穀物売り場を探しあてた。
「おい、日本人! おれだ!」見覚えのある顔が遠くから声をかけてきた。バスでお世話になったおじさんの一人だ。
「こっちに来い!」
ついていくと、米の袋をならべたテントの下にシャハラーおばさんがいた。
「シャハラーーー!」
「おしーーーーん!」
私たちは手を叩いて喜びあった。
バスで一緒だった人たちが集まってきて、
「おしん、よく来たなあ」
と口々に喜んでくれた。本当に、たった2日前に別れただけなのに旧友に会ったような懐かしさだった。

私は用意していたプレゼントをひっぱりだしてシャハラーに渡した。お世話になったお礼だ。でもシャハラーはこんなもの見たことがなかったから、ぼろぼろになった『地球の歩き方』をひっぱりだして説明した。
「バス、寒い。これ、あたたかい」
プレゼントは携帯用カイロだ。
「これ、24時間、あたたかい。一日だけ、あたたかい」
ひとつ開けて実演した。カイロが熱くなってくるとシャハラーはものすごく驚いて
「ラフマット、スパスィーバ!」
ウズベク語とロシア語の両方で感謝を伝えてくれた。

それから私たちはチャイハナ(喫茶店)で食事をした。串焼き肉とスイカをごちそうになった。シャハラーはあのバスの中で
「うちに来たらおいしいスイカをごちそうしてあげる」
と言ってくれたから、約束を果たしたことになる。肉もスイカもとびきりおいしかった。
外国人が珍しいのか話しているうちにどんどん人が集まってきた。まるで私はパンダになった気分だ。質問されるたびにシャハラーは
「バスの中で知り合ったの。日本人よ」
と何度も何度も説明していた。ちょっぴり得意げに。
そのうちチャイハナが黒山の人だかりになってしまい
「どこかよそでやってくれ!」
と店主から怒られてしまった。
シャハラーはさかんに「うちに泊まっていけ」と言ってくれたけど、私は日本へ帰るために先を急がなくてはいけなかったので、惜しみつつ別れた。

シャハラーとはもう二度と会うことはないだろう。でも、言葉がまったく通じないのに優しく守ってくれた人たちのことを、私は二度と忘れないだろう。


13. ウズベキスタン(1)

サマルカンドの赤いばら

13才のとき、宝塚歌劇の『サマルカンドの赤いばら』という舞台を観た。かっこいい砂漠の盗賊がでてくる物語で、陰気にひねくれていた中学時代の私をファンタジーの世界に連れて行ってくれた。ファンタジーにぴったりの「サマルカンド」という町は実在するのだとパンフレットに書いてあった。

次にサマルカンドという地名を目にしたのは高校の世界史の授業。
『14世紀後半、中央アジアではティムール王国が栄えました。首都はサマルカンド』
たった一行の記述にわくわくしてしまって、私はノートのすみっこに赤いばらの落書きを描いた。絵が下手すぎてカタツムリにしか見えなかったけれど。

高校卒業後、かっこいい盗賊ハッサンが活躍していた砂漠というものを実際に見てみたいと思った。それが旅行を始めたきっかけだったが、訪れたのはエジプトだった。サマルカンドは旧ソビエト連邦の一部であり、当時は簡単に行ける場所ではなかったのだ。

それでも私はエジプトを皮切りに、インド、トルコ、モンゴル、オーストラリア、メキシコ、ケニア、カンボジア、タイなど旅を重ねた。いくつもの国をめぐり、いろいろな人に会い、いろいろな経験をするうちに、ヘタレで泣き虫の私なりにだんだん度胸がついてきた。

言葉が通じなんくてもなんとかなる。
道に迷ってもなんとかなる。
お腹をこわしてもなんとかなる。

……よし。準備は整った。
サマルカンドに行く準備が。
ソビエトから独立したウズベキスタンを目指したのは『サマルカンドの赤いばら』を観てから15年後のこと。私は28歳になっていた。

とにかく家に連れていかれるウズベキスタン

ウズベキスタンの公用語はウズベク語とロシア語。当時は英語なんていっさい通じないかった。空港の出入国カードでさえロシア語のものしか見つからなかったくらいだ。

観光業者であろうがお店の人であろうが、英語は徹底的に通じなかった。「イエス」も「ノー」も通じない。「オーケー」とか「ホテル」とか、「ミー」とか「ユー」とか、「ワン・ツー・スリー」とか「ハウマッチ?」すら通じない! 私たちがウズベク語やロシア語に親しんでいないのと同じように彼らも英語に親しみがないのだ。
「英語は世界の共通語」
なーんて井の中の蛙もいいところ。この先、英語が通じない国なんて腐るほどあると知ることになる。

それでも、言葉が通じなくてもなんとかなる、ということは私はずいぶん初期に学んでいた。イスタンブールでR子と道に迷ったあのときに。
『地球の歩き方』にはたいてい「現地語会話帳」がついている。挨拶と必要最低限の単語が少し。「こんにちは」とか「安くしてください」とか「トイレはどこですか」とか、ほんの数ページ。それだけあればなんとかなった。それだけあれば、ウズベキスタンの道端で知り合った人々に
「うちに来いよ」
と頻繁に言われ、お宅を拝見させてもらい、ご飯を食べさせてもらい、
「泊まっていけよ」
と言われるのだった。

そう。ウズベク人は嘘みたいにフレンドリーなのだ。
ウズベキスタン初日、首都タシケントのホテルにチェックインをして散歩に出たら、5分でフレンドリーなおじいちゃんに出会い、さらに5分後にはそのおじいちゃんの家に連れて行かれていたくらいだ。有無をいわせない調子で
「わしの家で晩飯を食おう。ほら行くぞ」
とタクシーに乗せられたときには「拉致か!」と思ってドキドキした。だが普通においしいチキンとラグマン(うどん)と玉ねぎとトマトのサラダが出てきただけだった。それからもいろんな町でいろんな人のお世話になった。そのたびに、おいしいカレーだとか蜂蜜とパンだとかチャーハンだとかをごちそうになったが、危ないめに遭うことは一度もなかった。

ギーチェおじいちゃんの食卓

シャハラーおばさんと長距離バス

忘れられない出会いがある。
ウルゲンチからブハラまで420キロをバス移動したときのことだった。ローカルバスはなかなかの年代物でやっとこさ動くという有様。下り坂はかろうじてスピードが出るが平地と上り坂ではカタツムリ同然。他のバスやタクシーや、ロバにまで抜かれていく。そのうえ何度も故障し、砂漠の真ん中で修理をしなくちゃいけなかった。まあ420キロも乗ってバス代が300円程度だから仕方がない。

ローカルバスのせいか、私以外の乗客は全員、地元のおじちゃんおばちゃんだった。外国人がよほど珍しいのだろう。乗り込む前から好奇の視線は感じていた。
「君は日本人か?」
勇気をだした一人が声をかけてきて、そうですと答えると大騒ぎになった。
「日本人だって!」
「おお日本人なのか!」
「日本人日本人日本人!」
なぜか大人気である。
「日本人、つまりあなたは『おしん』なのね!」
……おしん。
ウズベク語に混じってそれだけはハッキリと聞き取れた。大昔のNHKドラマ『おしん』がアジアで流行っていると聞いたことはあったがウズベキスタンにまで進出していたとは知らなかった。しかも『おしん』のおかげで日本人のイメージがむちゃくちゃ良くなっていたとは。おかげでバスの中で私は終始『おしん』と呼ばれることになった。

「おしん! こっちに座りな」
一人のおばちゃんが自分の隣に手招きした。
「あんなオッサンの隣だと危ないよ」
車内に笑いがどっと湧いた。彼女はシャハラーという名前だった。シャハラーは町という意味だからさしずめ「町子さん」か。年は45才で敬虔なイスラム教徒。職業は米屋。町と町とを行き来して米の売り買いしているようだ。

私とシャハラーおばさんは意気投合し、長い道中ずっとおしゃべりしていた。『地球の歩き方』についてる「現地語会話帳」がボロボロになるまでしゃべりつづけた。
「あんたはどこへ行くつもりなの? 私は月曜までシャフリザーブスで米を売っているから遊びにきなさい。ぜひ来なさい。今から来なさい。ブハラは砂漠だ。ニェナーダ(なにも無いところ)だ。シャフリザーブスはヤフシャ(良いところ)だ」
本気でシャハラーおばさんのお世話になろうかとだいぶ迷ったが、どうしても寄りたい町があったので断った。おばさんはとても残念そうにしていた。

「アムダリヤ!」
川にさしかかったとき、シャハラーは興奮して車窓を指さした。砂漠のまっただなかに唐突にあらわれる青い宝石のような大河。なんという深い青だろう。
「アムダリヤ、ボリショーイ」
拝むようにシャハラーはつぶやいた。乾燥した砂漠で暮らす人たちにとって、滔々と流れるアムダリヤ川は偉大で神聖なものに違いなかった。
川面には一隻の小舟が浮かんでいた。乗客たちは身を乗り出すようにして
「船だ船だ」
と騒いでいた。
「おしん、見なさい、あれが舟だよ。珍しいだろ!」
と教えてくれた。ありがたいが日本人的には「そうですね」としか言えない。

アムダリヤ川

 

シャハラーおばさん

橋を渡るとき検問があった。強面の警官がバスに乗りこんできて、外国人の私はたいそう厳しいチェックを受けた。私が旅したのは2002年、アメリカ同時多発テロの翌年のことだったから、警官がピリピリしているのも無理はない。

恐ろしいことに、この国の警官はめちゃめちゃ評判が悪い。難癖をつけてワイロをむしり取る、へたをすると強盗よりも悪質だと聞いていた。そんな警官に「パスポートを見せろ」といわれて提出したらなかなか返ってこない。待っても待っても返してもらえない。不安が顔に出たのだろう、シャハラーやほかの乗客たちが口々に励ましてくれた。
「大丈夫、レギストラーツェ(滞在登録証明)を調べてるだけだよ」
「きっとそうだよ」
「あいつらは仕事が遅いんだ」
1時間ほど待たされてようやく警官がパスポートを手に戻ってきた。
「おい、おまえ本当に日本人なのか?」
疑われているのだろうか。どうしよう、と思うより早くバス中からたくさんの声があがった。
「日本人だ、日本人だ!」
「おまえは見てわからないのか、この子は『おしん』だよ!」
「おしん!」
「おしん!」
「おーしーん!」
湧き上がった『おしん』コールに気圧されて、若い警官は苦笑いを浮かべた。
「ごめんな。日本人を見るの初めてなんだ。握手してくれるかい」
差し出された手を握った。
バスのみんなが私を守ってくれたのだ。

休んだり停まったりしながらも、ぽんこつバスは雄大な砂漠をのろのろと走りつづける。あこがれの砂漠の盗賊ハッサンが駆け抜けた砂漠。本物の砂漠は広大だった。どこまでもどこまでもどこまでも、なにもない。針のような植物が生えていたり、ヤギ飼いがヤギを追って歩いていたり、たまにネズミのような動物がちろちろと走っていったりするくらいだ。風が吹けば砂紋が波立つ。きれいだ。

やがて日が暮れた。壮大な夕焼け。360度ぐるーっと見渡してもぜんぶ夕焼けだ。砂漠の果てに、地平線の上に銀色の月がのぼっていった。お皿のように丸いきれいな月だった。
「オイモモ」
シャハラーが月を指さして教えてくれた。
「オイモモ」
私はひとつウズベク語を覚えた。

長い道中には何度か休憩があった。ドライブインにはトイレがあったりなかったりした。砂漠のまんなかでいっせいにバスを降りるから何かと思ったら、
「おしん、こっちへおいで」
シャハラーに引っ張られた。女性は全員、バスの左側に集まっている。男性は反対側だ。男女別れて…トイレタイムというわけだ。なんて壮大なトイレだろうと思った。月の光に照らされる砂漠で、みんな一列にならんでトイレをする。地平線をながめながらおしっこだなんて、開放感がありすぎて感動した。人間よ自然に帰れ。

夕ご飯の時間になると小さな町のレストランに立ち寄った。オアシスの湧き水で手洗った。メニューは1つしかないようで、お茶と目玉焼きとナンが出てきた。
「おしん、スプーンはいるか?」
気を利かせてもらったけど、私は
「シャハラーがいらないなら、いらない」
と答えた。この答えはみんなに喜ばれた。誰もスプーンなんて気取ったものは使っていなかったから。私はみんなの真似をして、ナンで目玉焼きをすくって食べた。とてもおいしかった。

ガイドブックによればバスは5~6時間でブハラに着くはずだった。だが私の乗ったローカルバスはその倍、なんと10時間もかけて砂漠を走った。気がつけばすっかり夜である。日が暮れると砂漠の気温は一気に下がる。ぽんこつバスに暖房なんてないからむちゃくちゃ冷えた。私は1枚のジャケットをシャハラーと分け合ってかぶった。

真夜中、ぐっすり寝入っているところを運転手に叩き起こされた。
「着いたぞ、ブハラだ、日本人!」
ここで降りなければいけなかった。お世話になった人たちに別れの挨拶をしたいところだったが、みんな眠っていたし、私も寝ぼけていた。シャハラーにだけ小声でバイバイをいって、悪いけどジャケットを返してもらってバスを降りた。……シャハラー、寒かっただろうな。


12. 東南アジア 猫探しの旅(2)ミャンマー

謎の国ミャンマーへ!

その昔、若い芸人がヒッチハイクでユーラシア大陸を横断するというテレビ番組があった。番組ではタイからミャンマーに陸路で入ったかのように見せていたが、実は飛行機を使っていたといことがわかり騒ぎになった。当時のミャンマーはゴリゴリの軍事政権下にあり、陸路で入国なんかできるわけがなかったのだ。

私が東南アジアを旅した2002年もまだ同じ状況が続いていた。タイとは地続きなのに入れないなんて! なんて謎めいているんだろう。かえって興味がわいてきた。軍事政権てなんだか怖そうだけど行ってみたいと思った。

ミャンマーへ行こうと思ったら、お笑い芸人と同じ手段をとるしかない。飛行機に乗るのだ。私はバンコクに着いたその日のうちに旅行会社へいき
「ミャンマーへ行きの航空券と観光ビザをとってほしい」
と頼んだ。

航空券はすぐにとれたが…
「あいにくだが今日は土曜だ。大使館は閉まっている」
残念な答えが返ってきた。
「月曜の朝いちばんに取りに行くから、それまでパスポートは預かっておく」

パスポートを旅行会社に預けたまま数日を過ごす! こんなに心細いことはなかった。パスポートといえば旅行者にとって命の次の次くらいに大事なものである。パスポートを持たない外国人旅行者なんてパンツを履き忘れて学校へ行く小学生みたいなもんだ。なんか大事なところがスースーする。

一旦預けてしまったものは仕方がない。スースーするまま数日を過ごした。気を紛らわせるために現地ツアーに参加したり、死体博物館へ行ってみたり、占いをしてもらったりした。占いでは
「あなたは恋愛に向いていません」
と言われた。はなはだ失礼である。が、当たっている。

月曜の午後に旅行会社へ行ったがビザはまだできていなかった。
「明日きてちょうだい」
火曜の朝に行っても
「明日きてちょうだい」
水曜の朝に行っても…いや、アカンやろ。私のパスポート返してや!
それはカオサン・ロードの旅行会社で、いつもチャラチャラした若い男が店番をしていた。
「だってまだビザができてないんだもん。また明日きてちょうだい」
ヘラヘラ笑ってそう言うだけ。

私はキレた。ブチギレた。

「私の! ミャンマー行きの飛行機は!
今日出るの! 今日!
今日の午後! トゥディ・アフタヌーン!」

英語が苦手だから単語を繰り返すことしかできないが、十分に怒りは伝わった。
「…マジで?」
だらしないチャラ男は大慌てでとびだしていき、2時間くらいでビザと大事なパスポートを持って帰ってきた。できるんなら早くしろよと。今後、ビザの取得は絶対に自分でやろうと心に決めた出来事だった。

ビザ取得はギリギリになったがなんとか間に合った。ミャンマー航空に乗り込んだときはわくわくしていた。

インターネットを探してもミャンマーの情報はまだ少なかった。未知の国へ踏み込んでいくのだと思った。こんなに楽しいことがあるだろうか。これは「冒険」だ。エジプトのカイロで観光バスを降りたときからずっと求めていた冒険だ。

これから何が起こるかわからない。何が待っているかわからない。ちょっと怖いけど、それ以上に、浮きたつような喜びがあった。命と財布とパスポートの安全さえ確保できていればそれでいい。

同時に日本が恋しかった。相変わらずヘタレで泣き虫な私は、家族や友達やうちの猫のアジャリに会いたくてたまらなかった。

日本をでて数週間、ちょうどホームシックの時期に入っていたのである。このまま国境を越えてどこまでも旅をつづけたい気持ちと、早く家に帰りたい気持ちとが、ごたまぜになって飛行機に揺られていた。

タイム・スリップ・ミャンマー

謎の国ミャンマーは今までに訪れたどこの国とも違っていた。

ヤンゴン国際空港に到着した外国人は個人旅行者ばかりだったのに、全員がまるでひとつのツアーのように 団体行動を求められた。

入国審査を済ませると、ぞろぞろ並んで空港の両替所に連れていかれる。たったの20USドルしか両替できない決まりだったが、係員が小声で囁きかけてきた。
「5ドルくれたら100ドル両替させてあげる」
チップではない。そんなおおっぴらなものではない。やりとりはいつも小声でひそひそと行われた。この国では何をするにも賄賂が必要なのだった。

次はホテル選び。またしても外国人全員がぞろぞろとホテル案内カウンターに並ばされる。いかつい空港職員が見張っていて、列から抜けようとしたヨーロピアンを強制的に列に戻していた。

カウンターにはとんがった顔のお姉さんがいて、とんがった英語でまくしたててきた。非常にわかりにくい英語だが、ホテルの写真を何枚か並べているから
「この中から選べ」
ということだろう。選択肢はたったの数軒しかないらしい。
否やは許されない独特な雰囲気に気圧され、私は
「駅の近くでお願いします!」
と訴えるのがせいいっぱい。それだけで自動的に宿が決められた。

宿を決めると次は
「タクシー乗り場へ行け」
と指示される。

出口にはロンジー(民族衣装の巻スカート)を履いた運転手が何十人も待ち構えている。空港職員が運転手を1人を指名すると、外国人は荷物をとりあげられ強制的にタクシーに乗せられる。まるで流れ作業。私もあれよあれよと言う間にホテルへと連れていかれてしまった。

ようやく自由になれたのはホテルに着いてからだ。カオサンの安宿に毛がはえた程度だが値段は高かった。もちろん外国人専用。そこそこの朝食がついてきた。

翌朝、さっそく観光に出かける。お寺など観光地も多いが、ヤンゴンの町そのものが魅力的だった。

簡単にいうと2002年のヤンゴンは「昭和」だった。『三丁目の夕日』あたりの、21世紀どころか平成さえ来ていない、なつかしい昭和の香りがした(私はまだ生まれてないけどな)。

ヤンゴンは当時首都であり(現在の首都はネピドー)大都会だった。大通りにはたくさん車が走っている。大方は日本の中古車だ。箱根登山鉄道まで走っている。電気屋のショーウィンドウには、日本ではとっくに見られなくなった大きなガス炊飯器や、おばあちゃんが使っていた記憶のある足踏みミシンが、ぴかぴかの「最新商品!」として売られている。

軍事政権下のミャンマーではインターネットが禁じられており、ネットカフェも存在しない。立派なネット中毒の私にはこれがキツかった。トルコで大地震にあって以来、家族を心配させないようにとこまめにメールを送って生存報告をしてきたが、それもできない。

ネットの代わりに若者たちを集めていたのはテレビゲームだ。それもテーブル筐体のインベーダーゲーム。私が子供の頃にはやっていたものだ。もしかしてタイムスリップしたんじゃないかと本気で疑うくらいだった。

下町の路地に入ればさらに時代がさかのぼる。黒ずんでゴミだらけの道に鶏が走る。おじちゃんもおばちゃんも地べたに座りこんで話し込み、そのまま地べたで晩ごはんを食べている。しょっちゅう停電になるので外のほうが明るいからだ。調理には七輪やかまどが活躍している。もはや昭和前半の趣だ。

乗り合いバスに乗って

翌朝、ヤンゴンから約80kmの町・パゴーへ日帰り観光へ出かけた。

行きは乗り合いバスを利用した。いや、トラックバスというべきか。幌付きピックアップ・トラックを改造した乗り物だ。時刻表はなく、満員になったら出発するのだが「満員」の定義がひどい。ギュウギュウ度合いがハンパない!

車内がおしくらまんじゅう状態になったあとは天井(幌)に乗せる。それもてんこもりで乗せる。それから車の側面の窓枠と、背面のステップでも、捕まれるところ全てに乗客が隙間なくしがみつく。客の体で車体が見えなくなるまで乗せてやっと「満員」と見なされ、ようやくバスは出発するのだ。

私は背面に乗った、というか、しがみついた。30センチほどのステップに足を乗せ、幌の骨組みに腕を絡ませる。ジャングルジムにぶらさがってる子供みたいな状態だ。それで2時間、揺られていった。ぎゅうぎゅう詰めだから身動きがとれないし、腕はしびれるし、舗装もない道でトラックが揺れるたびに落ちそうになる。しかも炎天下だ。ギラギラの太陽が容赦なく肌を焼く。

私の隣には、70才くらいの焦げてしわしわになったおばあちゃんが同じようにしがみついており、
「しんどいねえ」
「暑いねえ」
と顔を見合わせてため息をついた。おもしろかったが、辛かった。

グッドスマイル?

パゴーではサイカー(自転車タクシー)の運転手に頼んで、地元で有名な猫屋敷や猫寺に案内してもらった。どこにでも猫好きはいるもので、そりゃあもう、うじゃうじゃいた!「猫100匹の写真を撮る」という目標はパゴーだけで達成されたんじゃないだろうか。

ミャンマーでは、観光地よりも何よりも、人々の笑顔が印象的だった。好奇心いっぱいで近づいてくるのに、英語が苦手だから、照れくさそうにはにかんだ微笑みを浮かべている。子供や女性は「タナカ」とよばれる白い日焼け止めを顔にぬっているのが可愛らしい。

サイカー運転手兼ガイドで雇った、マニーという男がこんなことを言った。
「この国は貧しい。でも人々はハッピーだ。グッドスマイルだ」
そのとおりだと思った。日本より50年ほど遅れているし生活は豊かではないが、人々の笑顔は美しく澄んでいる。いろいろな意味で擦れていないのだと思う。

だがマニーはこう続けた。
「貧しいのは政府のせいだ。この国では子供たちはみんな働いている。赤ん坊みたいな子供たちもだ。見てごらん!」

マニーの指し示した道路脇では排水口の掃除がおこなわれていた。指図しているのは大人だが、作業をしているのは子供ばかりだ。ほとんどが小学生、一番小さな子はせいぜい幼稚園児くらいだろう。

「見ろよ、まだほとんど赤ちゃんだ。溝の中に入って掃除をするには体の小さい子のほうが便利だからだよ」

かつてイギリスで煙突掃除をさせられていた子供たちの話を思い出した。体の小さい子のほうが便利だから煙突にのぼらされて、ときどき中で詰まって死んでしまう。

ミャンマーではたくさんの子供を見かけた。子供の数が多いというだけではなく、普通なら学校のある昼間でも、子供たちは店番に立ったり靴磨きをしたり働いていたからだ。

と、道路のむこうから隊列をくんだ子たちが歩いてきた。下校中らしい。汚れひとつないかばんを持って、ピカピカの制服と制帽がまぶしい。

「あれは金持ちの子たちさ。学費はすごく高いからほとんどの子どもたちは学校へ行けない。学校へ行けるのは役人の子供だけだ。なぜかっていうとね」
マニーは急に声をひそめた。
「政府がコントロールしているんだ。教育を受けた国民は自分で考えるようになり、政治に疑問をもつようになる。政府に反抗する。だからほとんどの国民は学校へ行かせないんだよ。現在の子供たちは、お腹がいっぱいであればそれだけで幸せだ」

当時のミャンマーには言論統制がしかれていた。政府への批判が警察や役人に聞きつけられたら逮捕されてしまうだろう。マニーはそこそこの勇気をもって話したのかもしれない。

「君に話を聞いてほしい」

ヤンゴンへ帰る列車の中では素敵な出会いに恵まれた。私と同じ年頃の若い夫婦と仲良くなったのだ。夫婦はとても親切で、言葉のわからない私をなにくれと世話してくれ、友達だよと言ってくれた。

だがそこに、
「君と話をしたい」
という男が現れ、雰囲気がガラリと変った。男は英語を話した。ミャンマーの人たちは英語が不得意だったがその人は流暢だった。

「外国人の君に聞きたい。この国はとても貧しいと思うのだが、君の目からはどう見えるか?」

自分は教師だという男の目は真剣だった。私は、初対面の人にあまり失礼なことを言えないと思い、マニーの言葉を借りることにした。
「たしかに貧しいが、美しい国だ。人々はグッドスマイルだ」

「ちがう!」
男は強く首を振った。激しい怒りにふるえていた。
「国民はみな貧しくて不幸だ。ミャンマーには光がない。真っ暗だ。見てごらん」

男は車窓を指さした。とっくに日が沈んで世界は闇に覆われていた。列車が停まっていたのでどこかの駅に着いているはずだが、何も見えない。また停電していたからだ。この国では電気がつく時間より停電している時間のほうが長い。

「この国は闇だ。ほとんどすべての国民が今の政府を嫌っている!」
男はおおげさな身振りで語った。
いつのまにか周囲には人だかりができていて、何人かが心配そうに
「やめておけ、逮捕されるぞ」
と止めていた。

男は最後に
「この国の本当の姿を外国の人に知ってもらいたい」
と言い残して去っていった。

電気がつくと、男の言うとおり、列車からは貧しい国の貧しい田舎がよく見わたせた。ホームには待ちくたびれた乗客のほかにニワトリやネズミが走り回っている。

列車は駅もなにもない所でもよく停まったが、そのたびにいろいろな人たちが乗り込んできた。トウモロコシ売り、ゆで卵売り、タバコ売り。

ゴミ拾いの人たちも多くやってきた。卵の殻やトウモロコシの芯、よごれた弁当箱やペットボトルを持っていってくれるのだが、清掃係ではない。彼らはそれを食べて生きているのだ。

ほんの5才くらいの女の子が手慣れた様子で座席の下にもぐりこみ、床に転がった弁当箱を見つけだした。だが期待したほど入っていなかったようで、もう一度もぐって汚れたトウモロコシの芯を抱えて出てくると、それをかじりながら歩いていく。

私と仲良くしてくれた若い奥さんがその子に声をかけ、まだ半分実のついているトウモロコシを差し出した。女の子は無言でそれを握りしめ去っていった。顔も手も足もどこもかも真っ黒だった。

窓の外でも声がする。何人も何人も線路脇で手を振っている。乗客にむかって
「ゴミを放ってくれ!」
「ペットボトルを投げてくれ!」
と頼んでいるのだ。

乗客が飲み終わったペットボトルを窓から放り捨てると、待ち構えていた人々が群がってペットボトルを奪いあった。そのとき一瞬、列車の灯りが彼らの姿を照らしだした。痩せこけて幽霊みたいなお年寄りたちだった。杖をついたおじいさんもいた。彼らはあのペットボトルを何に使うのだろう。生き延びるためであることは間違いない。

やがて列車は動きだした。
貧しい老人たちを闇の中に残したまま。
すべてが後ろへと流れ去っていった。

ネット中毒

ミャンマーの旅は刺激的だったが、何がつらいって、ネットがないことがつらかった。私は当時かなりのネット中毒で、宝塚友達とのチャットにはまっていた。徹夜でおしゃべりしていたら白々と夜が明けてきて
「あ、そういえば旅行いくんだった。ちょっとアフリカ行ってくるわ」
と寝ないままケニアへ行ったりしていた。

マレーシアでもタイでもネットに困ることはなかった。たしかWi-Fiはまだ普及していなかったが、代わりにネットカフェがどこにでもあったからだ。毎日一度は冷房とトイレを求めてネットカフェで一休みしながら家族や友達と連絡をとりあうのが心の拠り所だった。

ところが軍事政権下かつ昭和なかばで時が停まっているヤンゴンにはまだインターネットが登場していない。現代人ならスマホと取り上げられた状態だろう。けっこうキツかった。

ヤンゴンからバンコクに帰ると、最初に見つけたネットカフェへ吸い寄せられるように入っていった。ヤンゴンに比べるとバンコクは麗しの大都会に見える。必要なものはなんでも買えるしファストフード店もある。人々はちゃんとした服を着ているし宿にはネズミが走り回っていない。真っ黒になるほど蝿がたかった店もないし、軍人にみはられたりワイロを要求されたりしない。ここは天国だ。

ホッとして気が抜けたのか下痢をした。

最後の国境越え

帰国まで何日かあったので、最後にもう一度だけ陸の国境を越えにいこうと考えた。タイを北上すればラオスに出る。私は再び寝台車に乗った。エアコン寝台の上段は凍えそうな寒さだった。

列車に乗るとどうしてもまたミャンマーのことが思い出される。闇と太陽と人々の微笑みのコントラストが鮮やかに脳裏に焼き付いていた。今この瞬間もあの子供たちは溝をさらっているだろう。おじいさんたちは線路沿いでゴミを集めているだろう。私はなんてのんきな旅をしているのだろうか。

夜行列車の旅は平和そのものだった。終着駅のノーンカーイで降り、メコン川にかかる橋をわたればそこはラオスである。出入国も簡単で、観光ビザもその場でもらうことができた。

数日ヴィエンチャンを歩き、またタイに戻ってコラートの町に立ち寄った。ピマーイ遺跡をみた。何匹もの猫の写真を撮った。楽しくないわけではないが、さしたる出来事も起こらず、淡々と時が過ぎていき、私はすんなり帰国の途についた。

ぐんぐん発展しているマレーシア。
貧しさに閉じ込められたミャンマー。
王室を崇めるタイ。
メコン川のむこうのラオス。
4か国を訪れる旅はこうして終わった。

100匹の猫の写真を撮るという目標は達成した…と、思う。
何匹撮ったのか途中でわからなくなったからだ。
陸の国境は2度またいだ。
でもそんな些細な旅の目的なんてどうでもいいことだった。
旅に目的なんていらなかった。
見たことのないものを見て、感じたことのないことを感じ、日本では想像することすら難しいことを考える。
私の旅はそういうものだった。

いつかまた、あの国に

今でもときどき、ミャンマーのサイカードライバー・マニーの言葉を思いだす。
「現在の子供たちはお腹がいっぱいであれば幸せだ」
社会に疑問をもたず、自分の頭で考えず、ただ自分が生きていくことだけでいっぱいいっぱいの子供たち。

私はどうなんだろう。私たちは。学校へ行き教育は受けたが、ちゃんと自分の頭で考えているといえるのだろうか。

軍事政権の下、圧倒的な貧しさに閉じ込められていた謎の国ミャンマー。その下には人々のはにかんだ笑顔とどうしようもない貧しさが隠されていた。

私が旅してから9年後、ミャンマーは民主化に転じ、現在も急速に発展しているという。民主化されたミャンマーはどうなっているのだろうか見てみたいと2013年に旅行を計画したが、母の急病で頓挫した。

きっともう昭和の香りのする裏路地はないだろう。タナカを塗る人たちも減っていると聞く。それでもいつか必ず、発展したミャンマー、本当のグッドスマイルを得たミャンマーを旅したいと願う。その頃には子供たちがみんな幸せになっていることを信じて。


11.東南アジア 猫探しの旅(1)マレーシア・タイ

2002年 東南アジアに猫を探しにゆく

旅の目的を設定する

その1)国境を越えよう

泣いてばかりのヘタレな私は、ちょっとずつちょっとずつ、旅に慣れていった。
たくさんの人の助けを借りて、ちょっとずつちょっとずつ、歩けるようになっていった。

自由旅行をするようになり、一人旅もクリアした。
自分で宿を探すこともできたし、言葉が通じなくてもなんとかやってきた。
同じ国に1か月滞在することもできた。
さあ、次は?
次は何にチャレンジしよう?
……次は。
国境超えだ。

私はまだ国境というものを見たことがなかった。島国・日本には陸の国境がない。空港で出国をして、空港で入国手続きをする。実際の国境は海の上で知らないうちに越えちゃっている。なんだか味気ない。
プロの旅行記にあるように
「この線の向こうは違う国!」
と地面に引かれた国境線を自分の足でまたいでみたい。
そこで
「国境を見にいこう」
と思いついた。

そんなとき妹のR子に誘われてマレーシアへ行くことになった。R子は国際結婚をしたばかり。マレーシアに住む親戚に夫婦そろって顔を見せにいくというのだが、そんなところに私はくっついて行くことになった。
「ちょうどいい!」
マレーシアは東南アジア・インドシナ半島にある。隣国タイとは陸でつながっているから、北上すればマレーシア-タイの国境を見られるはずだ。マレーシアを始点に国境越えの旅をしよう!

旅の目的その2)猫100匹の写真を撮ろう

旅には目的が必要だ、とその頃は思っていた。ただ漫然と旅行をしているようじゃダメだ。何かしっかりと目的を持たねばならぬ。それが旅と旅行の違いであり、私は旅がしたいのだ…とかなんとか。

国境越えだけじゃ目的としてはイマイチ弱い。と思ったのでもうひとつ考えた。
「猫100匹の写真を撮ろう!」
うん、まあ、アホなのである。

私は子供の頃からカメラ小僧で、学生時代にはバイトで買った300ミリの望遠レンズを振り回していた(何を撮っていたかは秘密である)。もちろん猫も好きだった。東南アジアには猫が多いことも知っている。そこで
「猫100匹の写真を撮る」
という目標をたてた。普通に観光するよりずっと楽しいと思ったのだ。

マレーシアの猫はカレーを食べる

カメラ小僧的ゲーム感覚で猫の写真を撮り始めた私。記念すべき一匹めの写真がコレだ!

へたくそ具合がよくわかる写真になってしまった。

惜しい、と私は思った。
もっとマレーシアっぽい所で猫を見つけたらマレーシアっぽい猫写真が撮れるのではないか?

そこで観光地でもあるマスジット・ジャメへ連れていってもらった。イスラム教の立派なモスクである。さすがにモスク内に猫はいなかったが、カレーを食べたそうな猫を見つけた。マレーシアの猫はカレーを食べるのか。なんとなく満足した。

 

数日で妹たちと別れると、私はひとりでボルネオ島へ行くことにした。その名も「クチン=猫」という名の街がある、と事前に調べていたからだ。猫に出会うのが目的の旅でこの町をはずすわけにはいかない!

私の英語が下手すぎて旅行会社で通じず、さんざんバカにされた挙げ句、飛行機のチケットをとるだけで2時間かかったなんて気にしない!気にしないよ!ちょっと凹んだだけ!

クチンは名前のとおり猫の町だった。野良猫の町だった。いたるところに猫がいた。裏路地にも店先にも、店の中にも町外れにも、ジャングルの入り口にまで猫がいた。いかつい顔のワイルドな猫はカレーなんか食べなさそうに見えた。

たった一つ残念なことは、雨季だった。毎日じょぼじょぼと雨が降ったりやんだりする。猫は雨がキライだからあまり外には出てこない。望遠レンズで遠くから狙おうにも暗くて手ブレしてしまう。私は雨にうたれて風邪を引いた。熱がでて咳がでて喘息まで起こした。
「そろそろ違うとこに行こ」
ということで引き返した。マレーシアの猫は16匹しか撮れなかった。

初めての国境超え

ボルネオ島からクアラルンプールへ戻るとすぐ、バスターミナルで長距離バスを探した。いよいよ国境を越えるのだ!

国境を越えてタイへ向かうバスは夜行の1便のみ。見た目はふつうのローカルバスだが、かつてトルコの長距離バスで大変な目に遭ったことがあるから不安で仕方がなかった。
「私の席は4列シートの最後尾か……うん? この席、なんか変だぞ?」
ほかの席は4列ずつ並んでいるのに、その席だけ1つポツンと離れている。隣には誰も居ない。というか、席そのものがない。隣はなんとトイレだったからだ。
「トイレの隣かあ、あんまり臭くないといいなあ」

だがトイレの臭いどころじゃなかった。
バスが揺れる! 揺れる!
ジェットコースターみたいに揺れる!
しがみついていないと座席から振り落とされてしまう!
夜行だから眠たいのに、うとうとしかけるたびに座席から転がり落ちるか頭をぶつけて目を覚ます。
「なんなのこのバスは!」
周りの乗客がスヤスヤ眠っているのが驚異だった。

揺れる座席と格闘すること数時間。バスはようやく国境に到着した。
「イミグレーション!」
運転手が大声で乗客を叩き起こしていく。ここで全員おりるようだ。みんなそろって寝ぼけながらフラフラと歩いていくので後を追った。

あんなに憧れた国境だが、現実はあっさりしたものだった。ただの田舎町の、そう大きくもない建物だ。やることも空港と変わらない。行列にならんで出入国書類を提出してパスポートにポン!とスタンプを押してもらうだけ。それだけでマレーシアを出国したことになる。

国境には期待したような「線」はあったのかどうか? たぶん、なかったと思う。私も他の乗客と同じように寝ぼけていたので覚えていない。

ただ、なんとなくすがすがしいような、それでいて不安定なような気持ちになった。私はマレーシアを出た。でもまだタイには入国していない。そんな宙ぶらりんな気持ち。

マレーシアでもタイでもない緩衝地帯をバスで抜けると、次はタイの入国だ。やっぱり行列にならんで出入国書類を提出してパスポートにポン!とスタンプを押すだけで終了。

国境では線こそ見なかったが、はっきりとした違いに気がついた。マレーシア出国でスタンプを押してくれたのはヒジャブをかぶったお姉さんだった。イスラム教徒の証である。

タイ入国の審査官は普通のおじさんだったが、背後にはタイ王室のカレンダーが飾られていた。優しく国民にほほえみかけるプミポン国王の写真にタイを感じた。イスラム教徒の多いマレーシアから、プミポン国王を崇めるタイに入ったのだと。

「置いていかないでー!」

入国審査場でトイレをかりて出てきたとき、大変なことが起こっていることに気がついた。

建物を出たところにバスの待機場があるのだが、私の乗ってきたバスが、この先ハットヤイまで乗せてくれるはずのバスが、エンジンを震わせ今まさに動きだそうとしている!
「待って!」
思わず声をあげたが届かない。

バスはのろのろと進み始めた……まだ私が乗っていないのに。
「置いていかないでー!」
必死に叫んだ。必死に追いかけた。だがバスは無情にもスピードを上げていく。手を伸ばしても伸ばしても私との距離はみるみる開き、 あっという間に走り去ってしまった。

「ウソやろ……」
土煙を見送りながら呆然と立ち尽くした。びっくりしすぎて涙も出なかった。国境でバスに置いていかれるなんて、こんなマンガみたいなこと、あってたまるか。

貴重品はすべて身につけているから即死することはないが、着替えなどを詰め込んだバックパックはバスの中だ。とりあえずパンツを替えられないのは苦痛だと思った。バス会社に連絡したら回収できるだろうか。いや、それよりもバンコクまで行く別のバスは見つかるだろうか。

バスの待機場にむかってとぼとぼ引き返していたら、
「何やってんの?」
声をかけられた。
「君のバスはあっちだよ?」
同じバスの兄ちゃんだった。振り向くと、私のバスがそこにいた。目の前で走り去ったのはよく似た模様の別バスだったのだ。恥ずかしくて倒れそうになった。
「寝起きでメガネをかけていなかったの」
とか言い訳をしていた。メガネなんて持ってないくせに。

運転手は、客が全員そろっているかしっかり確認してからバスを出発させた。置いてきぼりをくった客はいないようだ。当たり前である。

バスは夜明けの農村をゆっくりと走った。霧が白々とただよっている。道路沿いに立ならぶ看板はさっきまでマレー語・中国語・英語と3ヶ国語表記だったのに、今では完全にタイ語のみだ。完全にタイに入った証拠だ。

クアラルンプールを出発してから10時間。まんじりともしないうちにバスはハットヤイの町に到着した。とにかく眠たかったから、ターミナルで待機していたバイクタクシーに
「安いホテルにつれていって」
と告げると、丸いベッドと鏡の天井がある部屋につれていかれれた。ラブホテルかよ。
「別の宿を探そう」
で見つけたのは、鉄道駅ちかくの、ちょっとお化けが出そうなくらいボロボロの宿だった。お化けは出なかったけどネズミとゴキブリとあと何かわからない虫が出た。お化けのほうがよかった。

寝台列車のキャプテン

いよいよ次はバンコクを目指す。もう2回も訪れているバンコク。懐かしいバンコク。国境近くのハットヤイからは夜行列車で15時間だ。一番安い3等は椅子席だというので、横になれる2等寝台を選択。初めての寝台車にうきうきしていた。

ただ一つ気がかりなことは、隣席の人が見るからにヤバいおっさんであることだ。だいぶ目つきが座っている。変態かもしれない。変態だったらどうしよう、と思っていたらお酒の臭いがプンプンする。アル中のヘビースモーカーだった。目が座っているのはただ酔っ払っているだけだった。

ホームまで見送りにきていた家族がしきりに心配して
「おいオヤジ、ちゃんとバンコクまで行くんだぞ、途中で降りるんじゃないぞ」
とかなんとか諭している。そりゃあ、ベロベロの酔っぱらいに長旅をさせるのはさぞかし心配だろう。

息子らしき人は私にまで
「すまないがオヤジを頼む。着いたら電話をくれないか」
と電話番号を渡してきた。言葉も通じない外国人に頼むしかないなんて気の毒である。頼まれた私はもっと気の毒である。せっかくの鉄道旅行だというのに、なんで見知らぬおっさんのお守りをしなくちゃいけないのか。

沈鬱な私の気持ちなぞ気にもかけず、おっさんは
「よろしく相棒! 俺のことはキャプテンと呼んでくれ、ウッヒッヒ」
などと上機嫌に笑っている。英語が話せるうえに
「オー、ニホンジン、デスカ、コンニチハー」
挨拶程度の日本語も知っている。キャプテンは本当に船乗りだったのだろう。俺は世界各地の港に恋人がいるんだなんてしゃべっていた。

残念なことにというか予想通りというか、キャプテン・オヤジはものすごくめんどうくさいおっさんだった。起きている間はずっと飲みっぱなし。15分起きにタバコを吸いにいく。
「財布がない!」
と何度も大騒ぎする。
「あれには俺の全財産が入ってるんだ!」
周りの人たちに命じて探させ、大騒ぎしたあげくに「ズボンのポケットに入ってた」というオチ。

他にも若い車掌さんと私を見合いさせようとしたり、大声で歌いだしたり、そりゃまあにぎやかなことだった。勘弁してほしい。

うるさくてめんどうくさかったが、大きなトラブルはなかった。それどころか終始ご機嫌で夕飯をおごってくれた。いい具合に酔いが回ったようで
「もうワシ寝るから」
と7時半くらいには寝てしまった。すさまじいいびきをかきながら。

私は窓からひとりで夕暮れを見ていた。オレンジ色の夕日がヤシの森のむこうに沈むと、みるみるうちに暗闇が世界を覆っていった。

タイ人のおばちゃんたちのおしゃべりをBGMに聴きながら、私は2段ベッドの上段で眠った。2段ベッドから落ちたらどうしようと少し不安だったが、ジェットコースターみたいな夜行バスに比べたら止まってるみたいなものだったし、ガタン・ゴトン、ガタン・ゴトンという規則正しい音のおかげで心地よく眠れた。


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