番外編一覧

Kindle版『地球の迷子 中東編』出版しました。

Kindle版『地球の迷子 中東編』出版しました。

表紙写真はヨルダンのペトラ遺跡です。
アフリカから北上してきた私は陸路でエジプト・シリア・ヨルダン・イスラエル・トルコを旅します。

中東の旅はアフリカに比べると平和なものでした。
せいぜい暴漢に襲われかけてタマ蹴り上げて逃げたくらい。
トルコなんかほぼ食べ歩き。
エジプトでは、私が見てきた中でも指折りの絶景「白砂漠」を訪れます。
あそこはもう一度行きたいなあ。

今考えてみれば、当時のシリアは内戦に入る直前でした。
たった半年後に内乱が起き、イスラム国が暴れ、アレッポの市場は燃え尽きました。
私の大好きなハマの町は今頃どうなっているのでしょうか。
今考えてみれば、私はシリアの最後の平和の時代を旅していたのです。

お値段99円。紙版を1冊たしか千円で売ってたと思うので、南米編まで全部あわせて千円くらいになるようにしたいと思います。売上はサンジのお薬代につかいます。よかったら読んでください。


出版しました。『地球の迷子』電子書籍版・アフリカ編

2010-11年の旅をまとめた『地球の迷子』ので電子書籍版をつくりました。とりあえずアフリカ編のみですが。


紙の本ではなく電子書籍、Kindle版ですのでご注意ください。

以下は10年前、アフリカで書いた言葉です。

携帯がつながらない日でも
ブログを更新できない日でも
毎日、日記を書いています。

わたしは弱い人間です。
おろかで、浅はかで、そして寂しがり屋です。
本当を言うと、怖いときもあります。
心細くて泣きたいときもあります。
どんなところでも平気だよ! って言えるほど強くないのです。
わたしはいま、一人旅をしていますが
わたしの文章を読むとき
あなたはわたしの心のそばにいます。

だから、お願いです。
弱虫なわたしのそばにいてください。
わたしはできる限りを言葉にとどめ
読んでくださるあなたといっしょに旅をします。
わたしといっしょに、旅をしてください。

2010年3月3日 ザンビアにて

『地球の迷子』は2010年・11年の旅行記をまとめて自費出版した本です。
自費出版なので部数はほとんどなく、電子書籍版を希望してくださる方がいらっしゃったので作ることにしました。

紙の本はページ数の関係もありほぼ当時の旅ブログそのままでしたが、電子書籍版は当時つけていた日記をベースに書きなおし、エピソードも加筆しました。だいぶボリュームアップしております。

どんな旅行記か?
南アフリカからジンバブエやタンザニアなどを通って北上、中東を経てヨーロッパ、インドを4ヶ月かけて周りました。
2回めの旅では南米を旅します。

第1弾はアフリカ編です。
ご想像のとおりハードな旅でございました。
象に追われたり、バンジー・ジャンプ飛んだり、オーバーステイやらかしたり、貧しい人々に打ちのめされたりしています。
ヘタレバックパッカーなのでかなりしんどかった…でも最高の旅でした。

この先、ひたすら美味しい中東・アイスクリームのヨーロッパ・騙されまくるインド・2回めの旅の南米へとつづく予定です。
まだ作ってる途中なのでだいぶ時間はかかりますが・・・・

有料でごめんなさい。
売上金はうちの猫のサンジの治療費となります・・・。

よかったら読んでください!


24. ついでの旅モロッコ

入国で止められる

車椅子の妹をつれてエジプト旅行したあと、私は一人でモロッコへ向かった。「せっかくここまで来たんで」まあ、ついでのノリである。

ついでだから、モロッコについては下調べゼロの状態だった。なんの準備もしていなかった。エジプト旅行の準備に追われてモロッコどころじゃなかったのだ。ガイドブックがあるからなんとかなるだろう。

そんなことを考えていたら入国審査で止められた。
「なぜ君は一人なんだ?」
なぜ?
なぜって…なぜ?
突然の質問に答えることができないでいると、入国審査官はクソ真面目な顔で質問をくりかえす。
「なぜ君は一人でモロッコへ来たんだ?」
理由なんかないよ?
「話にならない」
係官は怒った顔で空港警察を呼び、なんと私はしょっぴかれてしまった!

逮捕ではないみたいだったけど、連れていかれた小部屋にはちょっと偉そうな人がいて、取り調べを受けることになった。
「なぜエジプトから来たんだ?」
エジプト観光をしていたので。
「なぜ一人でモロッコへ来たんだ?」
家族は帰国したので。
「だから、なぜ君は一人で来たのかときいている!」
一人で来たらアカンのか?
「普通はみんなパートナーと来るだろ。夫とか恋人とか友だちとか。君にはパートナーがいないのか?」
なんだよその心臓をえぐるような質問は!

よくわからない容疑を晴らすためにだいぶ議論をした。解放されるまでに1時間もかかった。ヨーロッパに近いこの国ではカップル文化もあり、テロ対策として一人旅の人間を怪しんだだけなのだろうが、寂しい独り者に「なぜ独身なのか」なんて聞くなよ。悪魔かよ。

フェズの迷路

以前、友達とこんな会話をかわしたことがある。
「へえ、あんたモロッコに行くの? どんなとこ?」
「町が迷路みたいにややこしいらしいよ。みんな迷子になるんだって」
すると友達は笑って言った。
「あんたはどこででも道に迷うから、おんなじやろ!」

ぜんぜん、違う!

私はたしかに迷うのが得意だ。ひょっとしたら天才かもしれない。でも、今まではどんなに迷っても平気だった。怖くなかった。なんとかなるだろうと思っていた。

だけどモロッコの迷路は、違う!

初めて訪れたモロッコのメディナ(旧市街)。
フェズ・エル・バリ。
3秒で迷子。
そのまんま餓死。

いや、それくらいすごい巨大迷路だったのだ。
まがりくねった細い道。
細くて暗くて狭い道。
両側の壁が倒れてきそう。
無数の小路が毛細血管のように入り組んで。
広がったり、つながったり、行き止まったり。
そこを大勢の人々が流れていく。
おじさんが大荷物を抱えて歩く。
子供が走る。
物乞いが座りこむ。
早歩きのおばあちゃんに抜かされる。
いっぱいに荷を積んだロバが通ると道はふさがれ、身を横にしなければ通り抜けられない。
フェズは生きて動く迷路のよう。

なんとたくさんの道だろう。
なんとたくさんの人だろう。
私は迷路にとじこめられた。
人と道とにとじこめられた。

見上げれば空も狭かった。
壁にはさまれた空を見上げると、窒息しそうな気持ちになった。
出口がなくて苦しくて、そのへんのひとに道をきいたら、たまたま絨毯屋だった。
あやうく買わされるところだった。

なんとか逃げだし、そのあとも。
迷って迷って、迷いつづけて。
ぐるぐるぐるぐる、まわりつづけて。
壁にぶつかり、道を阻まれ、それでもずんずん歩いていくと。

白いきれいな猫に出会った。
妖精のように白い猫だった。

迷子になった

迷子・道草・遠回り。
歩いたおかげでこの子に会えた。

旅とは迷うことなのだ。
旅とは歩くことなのだ。
たぶん。
きっと。

青のシャウエン

巨大迷路はもう懲りごり!
田舎へ行こう。きれいな空気を吸いにいこう。

そう思いついてバスに乗った。バスはがたごと揺れながら山道をのぼっていく。急なカーブを曲がりきると、パッ! と明るい町にでた。おとぎ話みたいに可愛い町だ。

シャウエンは、壁一面を青く塗っていることで「青の町」として知られている。
山へつづく道を登ってゆくと、町が眼下にみおろせた。 まるで絵本をひらいたように。

ときをつくる鶏の声、犬のワンワン吠える声、赤ん坊の泣き声、鍛冶屋の音、サッカーをする子供達の掛け声。
すべての音が雪をかぶった山に吸い込まれていく。
空気は静かに澄み渡る。
朝日をあびたシャウエンの町は、葉っぱのうえの水滴のように輝いている。

宿のウェイターが
「夕日がきれいだよ。見なさい、あの色を」
と空を指さした。
私しか客が居ないので、彼の仕事はヒマである。日がな一日ドアのところに突っ立って外を眺めている。
通りのむこうに広がる緩やかな谷を。

彼はこの景色を毎日眺めているのに、毎日「美しい」と思っているのだった。
毎日眺めて、それでも飽かない美しさ。
日常に感動できること。
それはとても大事なことに思えた。

陽が傾くと幻想的なシャウエンの青はさらに深みを増した。まるで深い湖のような、鍾乳洞のような、雪と氷でできているかのような、青さと……寒さ。

そうなのだ。
寒いのだ。
ものすごく。
みぞれまじりの雨まで降ってきた。
私はしっかり風邪をひいた。

港町タンジェ

シャウエンは素晴らしかったが、寒すぎた。
山はもういい。
次は海だ!

ジブラルタル海峡に面した港町・タンジェへやってきた。この海のむこうはもうスペイン。ヨーロッパである。

日程的にスペインに渡るのは無理だが
「本場に近い港町で本場に近いパエリアを食べよう!」
というわけでタンジェにやってきたのだったが。
長距離バスを降りてすぐ、目についた店で早速パエリアを頼んでみたら、意表を突いて、まずかった。あまりのまずさに、この町、もういいやと思った。
(治安があんまりよくなかったことも一因だが)

宿をチェックアウトをして、列車の時間までぶらぶらと道端の猫と遊んでいたら、
「おいでおいで、うちへおいで! 子猫がいるんだよ。見せてあげるから、おいで!」
優しいおじさんが自宅に招待してくれた。

彼はスペイン人の歯医者だった。スペイン語しか通じないが、相手がスペイン語だろうがアラビア語だろうが英語だろうが、私は日本語しか話せないんだから、どうせ同じである。

言葉はぜんぜん通じないのに、フェリックス爺ちゃんは表情豊かに、そして多弁に、故郷のスペインのことをきかせてくれた。家族や仲間の写真を見せてくれながら。
「観光するなら、やっぱりセビリアだよ!」
爺ちゃんの話を聞いているとスペインに行きたくなってきた。もうちょっと日にちがあれば行ったのだけれど。

そうして彼は冷蔵庫のありったけの食料をテーブルに並べてもてなしてくれた。コーヒー、練乳、砂糖、パン、ケーキ、クッキー、バター、ジャム、ヨーグルト。チーズにプリンにジュースまで。

最後に出てきたとっておきが、サラミだった。
「これはスペインのサラミだ。美味しいぞ!」
ナイフで切ってパンやビスケットに載せて食べた。適度な硬さと弾力があって、味は濃厚。噛めば噛むほど味のでるサラミだ。今まで食べたサラミは何だったのかと思うほど、抜群に美味しかった!

帰りぎわ。
「タンジェはスリが多いからな。気をつけて、気をつけて、気をつけるんだよ!」
言いながら、お爺ちゃんは私のポケットいっぱいにキャンディを入れてくれた。言葉も通じないのにほんとのおじいちゃんみたいな気がしてきた。

フェリクス爺ちゃんとご自慢の猫

マラケシュのジャマ・エル・フナ

鉄道で終着駅のマラケシュへ。ここは今回一番の目的地だ。どうしてモロッコに来たのかといえば、宝塚歌劇に『マラケシュ・紅の墓標』という芝居があって、その舞台背景がなんとなくよかったものだから、なんとなくモロッコに行きたくなってしまったのだ。

シャウエンが青の町なら、マラケシュは「赤の町」だ。建物が濃いピンク色に塗られている。相変わらずここにも猫が多かった。

そしてマラケシュといえばジャマ・エル・フナ! 有名な「死者と踊る広場」だ。怖い名前とは裏腹に、朝から晩まで屋台がならび、大道芸人が歌い踊り、年がら年中お祭り騒ぎをしている陽気な広場である。

むちゃくちゃ広いというわけじゃない。昼間はたいして混んでもいない。
だが日が傾きはじめると男達があわただしく働きだす。
テントが広がり、ベンチが並べられ、屋台がつぎつぎに組み立てられていく。
レストランの若い衆が店先の裸電球をまわせば、ジャマ・エル・フナに命が灯る。

ずらりと並んだ食べ物の屋台。
怪しげな商人の怪しげな露店、大道芸人をかこんで輪になった群集。
お祭りだ。
お祭りだ。
ジャマ・エル・フナはお祭り騒ぎだ。
毎日毎晩、お祭りの楽しさでいっぱいなのだ。
年がら年中、夏祭り。

まずは腹ごしらえといこう。屋台は無数に並んでいるが、同じ種類の店がかたまっていて客引きに熱心だ。しっかり食べたいならシシカバブのレストランもあるけれど、
「おいニッポン人! 食べてくかい!?」
混みあった屋台から声をかけられた。コの字型に並べられたテーブルの真ん中に調理台があり、煙がもくもくと上っている。なんの店だろう?
「レバーだよ! 臓物だよ!腹ン中でぐちょぐちょしてるやつさ。分るかい?」
陽気な店員がまくしたてる。
「そこへ座りな!」
ベンチはいっぱいだったが女の子と家族連れが詰めてくれた。出されたのはタマネギとレバーの炒め物だ。えらい真っ黒けの料理やなコレ! 目を丸くしていると、おばさんが私の反応をみて笑う。
「パンにつけて食べるんだよ」
と女の子が教えてくれる。見た目は悪いが臭みがなくておいしかった。昔、うちのお爺がつくってたレバー煮込みと似ていた。

真っ黒なお皿を平らげたら、次へいこう。物足りないならハリラ(トマトスープ)やスイーツや貝の屋台もあるが、レバーでげっぷが出そうなのでオレンジジュースを飲みにいこう。フレッシュジュースはいつでもおいしく、胃をさわやかにしてくれる。お勘定を払うと必ず果汁でぬれた小銭が返ってくる。

食べたり飲んだりしている間にも、辺りから聞こえてくる太鼓のリズムや歌声が耳を刺激する。大道芸人が稼ぎにきているのだ。早く見たくてわくわくしちゃって、本当はじっと座っているのが難しいくらいだ。ジュースのコップを飲み干すと、群集の中にとびだしていく。

さあ、何をみよう? 蛇つかいはチャルメラを吹いているし、ヘンナ描きの女たちは座り込んで観光客の腕に唐草模様を描きこんでいるし、黙々とカードを繰っている老婆はきっと占い師だろう。

いろいろな商売があったが、大きな人の輪にはたいてい音楽があった。ここではベルベルと呼ばれる原住民・遊牧民の音楽を聞くことができる。びっくりするほど素朴な楽器で草原の音楽を歌って聞かせる。
民族衣装をまとったグループが踊っていたり、家族みんなで歌っていたり。
ギター片手に漫談をしている男は、
「俺はモロッコのジャクソン! モハメド・ジャクソンだ!」

楽しかったらチップを投げる。銀のコインがころころ転がる。演奏がうまくてたくさん人が集まれば、かなりの儲けになるだろう。

だが、誰も足を止めないような芸人もいるわけで。大きな人の輪から少しはずれたところには、だいぶしょぼくれた音楽家もいた。片足のヴィオラ弾きや夫婦者のバイオリン弾き。

私はちんまりと座っている爺ちゃんが好きだった。彼は一人でやっていて、ルバーブという弦楽器をこすっているのだが、同じ音しか出せないようだ。歌もウーウー唸っているだけ。音楽と呼べるようなものではない。

それでも、この爺ちゃん、可愛いんだ。とっても可愛いんだ。
「一曲、聞かせて下さい」
と頼むと嬉しそうにニッコリ笑った。ほんわかとあったかくなるような微笑み、この爺ちゃんに会えてよかったと思うような微笑みを浮かべて、……そんでまた一音だけでウーウー唸りだした。

こちらは人気者のルバーブ弾き

こんなふうに一つひとつ書いていくときりがない。
書ききれない。
ジャマ・エル・フナの喧騒はとても書ききれるもんじゃない。
呼び声、売り声、歌う声。
怒鳴り声に笑い声。
ボンゴにギターにタンバリン。
肉を焼く音、水の音。
タバコ屋がじゃらじゃら鳴らしている小銭。
足音、靴音、猫の声。
ロバの荷車のきしみ、バイクのエンジン。

すべての騒音がすべてのざわめきが、上へ上へととのぼっていく。シシカバブの煙といっしょに夜空へのぼっていく。そうしてそのうえを、アザーンが悠々と流れていく。

マラケシュへ来てよかったと、モロッコへ来てよかったと、そう思わせてくれるのがジャマ・エル・フナだ。

サハラの音楽

ある日の夕暮れ。土産物屋の兄ちゃんと話がはずんだ。
「ベルベル(先住民)の音楽を知ってるかい?
俺達の音楽を聞かせてやるよ!」

土産物屋の2階。倉庫のように小さな部屋で音楽が始まった。
3人の若者が私一人を観客に30分ばかり聞かせてくれた。

彼らはドラマーだった。
楽器は実にシンプルで、いくつかのボンゴと銅製のカスタネット、ボールペンで棚を叩いてそれも音に加えていたくらいだ。
だから音楽もシンプルだった。
高い音。
低い音。
響く音。
切れる音。
そして・・・リズム・リズム・リズム!
楽譜なんかありはしなかった。
誰かがつくったのでも、誰かが決めた音でもない。
自然に湧きだす音だった。
とめどめない泉のように、燃え上がる感情のように、
彼らに流れるベルベルの血からあふれで音楽だった。

それはまるで会話のようだ。
一つの音に二つが答える。
高くのぼり低く沈み、問いかけ答えあって、音が音にこだまする。
語りかけ笑いさざめき、時には饒舌にたたみかけ、
情熱的に燃え上がる。

音が音が音が、音が!
腹にこたえるボンゴの振動が、部屋いっぱいに詰め込まれた銀の小物をちりちりと震わせ、私の芯も震わせて。
それでいながらその音は、2階の小部屋にいることを忘れさせ、頭上に無限の星空が広がるどこまでも広い大地に私を連れていったのだった。

若者達は演奏しながらよく笑い、歌い、掛け声を叫び、しばしば楽器をとりかえていたが、やがて彼らの音は勢いよく歯切れよく終わった。
太鼓から手を離すと彼らはまた陽気に笑いだし、ベルベル語で一気にまくしたてた。
ぽかんとしている私に気づいて、
「ごめんごめん、音楽をやると楽しくなっちゃうんだ。
俺達はこれをサハラでやるんだよ!」
と言った。

私の英語は拙くて、彼らに感動を伝えられないことがもどかしかった。
でも、たとえ言葉の問題がなくても伝えきることはできなかっただろう。
こんなふうに全身で音を受けとめたことは今まで一度もなかったから。

せめてお礼に彼の店で買い物をして帰ろうとしたら
「そんなのいいよ」
と言われてしまった。
「俺らは音楽が好きで好きでたまらないから演奏したんだ。
俺達の音楽を、ベルベルの音を、聞いてもらいたくて叩いたんだ。
俺達の文化を知ってほしかった。
それだけなんだよ!」

私には芸術とか音楽とかはよく分らない。
ただ彼らベルベルの血が、エネルギーが、ポジティブな明るさが生みだすシンプルな音は、大地から生えてくる自然の響きのようにすばらしい音だった。
一生忘れられない音だった。
それをここに書くことが、誰かに伝えることが、せめて彼らへの御礼になればと思う。

カサブランカの高級レストラン

カサブランカは都会だった。洗練された都会だった。
カサブランカに着いた夜、私はお腹がへって倒れそうだった。
だからなんにも考えず、最初に見つけたレストランに入った。

入ってみたら高級レストランだった。白人ばかりの店だった。紳士淑女がワインを飲んで、パリッとした白いナプキンを使うような店だ。ドレスコードもあったかもしれない。しまった、と思ったが、とにかくお腹が減っていた私はなんでもいいからここで食べよう思った。

西欧式の格好のいい給仕がやってきて、

「お飲み物は?」
「・・・・・・・お水を」

これほどいたたまれなかった食事はない。メニューはもちろんフランス語。どんなに睨みつけても読めはしない。なんとか見当のつく料理といえば、ミックスサラダとサーロインステーキ、それから
『グリル・サーディン』
サーディン。
聞いたことがある言葉だ。聞いたことがあるけれど・・・何だっけ?
度忘れしたけど、とにかく安い!
そのサーディンとやらとサラダを注文してみた。

運ばれてきたサラダは巨大なボールに山盛りいっぱい!
5人くらいで分けるのだろうか。
給仕が怪訝そうな顔で何か言ってくる。フランス語だけど根性でわかった。
「サーディンもごいっしょにお持ちしましょうか?」
と言ってくれているのだ。
「そうしてください」
と、返事したつもりだったけど、残念ながら伝わらなかった。
待てども待てどもサーディンは来ない。
正式な順序どおり、サラダを食べ終えるまで待つことになったらしい。
これは根性で完食せねばならぬ。

もう一度言う。
これほどいたたまれなかった食事はない。
サラダと格闘している時はあんまり必死だったので、通りすがりに
「ニイハオ」
と声をかけられて思わず「ニイハオ」って返しちゃったくらいだ。
「謝々」くらい言ったかもしれない。

20分ほどかけてボールいっぱいのサラダを平らげる。
待ってましたとばかりに運ばれてきたグリル・サーディン。
・・・イワシである。
焼いたイワシがお皿にドン!
6尾もならんで焦げていた。
当然ながら、醤油もポン酢も何もなし。

サラダでお腹がいっぱいなので、イワシは半分で勘弁してもらうことにした。財布にお金が入っていたことは本当に救いだった。お勘定をすませると逃げるように店を出た。高級レストランなんて入るもんじゃない。
カサブランカの思い出は、このイワシだけである。

さいごに

母が倒れて、介護の世界に閉じ込められたとき、よくモロッコの旅を思い出した。

今は家から出られないけれど、私はこの世界が広いことを知っている。地球の反対側には青と白の町シャウエンがあり、ジャマ・エル・フナでは毎晩お祭り騒ぎが繰り広げられていることを知っている。世界は広く、美しい。

遠く美しい世界に思いを馳せることで、閉塞感から逃れられることができた。自分だけの小さな世界に閉じこもらずにすんだ。ありがとう、モロッコ。


23. モロッコの猫写真

モロッコは、私が訪れた国々の中でもとびきりフォトジェニックな国でした。
でも私は猫ばーっかり撮ってました・・・もうちょっとセンスがあればいいのですが!

モロッコの猫はみんな大事にされていて幸せそうに見えました。
猫の写真を撮っていると不思議がられるどころか喜ばれる国でした。
本日は猫の写真を主にお届けします。

サムネイル写真をクリックすると大きな写真が見られます。
大きな写真のインフォメーションマーク(i)をクリックすると、簡単な説明が表示されます。たまに猫ナシの風景写真もあります。

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旅行記というほどのネタはありませんが、モロッコのお話はまた次回。


22.車椅子でエジプト旅行(3)ツタンカーメン

王家の谷

エジプト観光3日目。
飛行機の関係でこの日だけはハードスケジュールとなった。朝はなんと2時半起き! 6時のフライトでルクソールへ飛ぶ。ルクソール空港にはリフトがなかったので、スチュワードさんがU子をお姫様だっこで降ろしてくれた。

眠い目をこすりつつ、いざ、王家の谷へ!

いくら下見で「大丈夫だ。行ける」と思っていても、実際に訪れてみるとやっぱり苦労はあるものだ。王家の谷へ入るには「タフタフ」と呼ばれるチューチュートレインに乗らなければいけなかったし、遺跡の中は例外なくガタガタで、車椅子を押すにも一苦労。

U子は移動のたびに抱き上げる必要があるため、地元の男性を雇ってもらった。アフマド君という若者だ。介助についてはまったくの素人ながら、力持ちだし優しいし、一生懸命はたらいてくれた。彼がいなければほとんど何も観られなかっただろう。

ツタンカーメンの墓はアフマド君の本領発揮だった。洞窟のように狭くて急な長い階段をずーっと降りていく作り。もちろん車椅子を持って入るなんて不可能だ。私は2年前の下見のときに
「U子には無理だろう」
とあきらめていた。

ところがアフマド君は、
「行けるよ。大丈夫。だってツタンカーメンの墓だよ? 見なくっちゃ!」
U子をひょいと担ぎあげ、そのものすごい階段を、抱っこしたまま降りてくれたのだ。
……途中で落とさないかハラハラしたけど。

一番奥の玄室に着くと、アフマド君に一息入れてもらうため、私はU子を木の手すりにもたせかけて立たせた。美しい壁画の下に石棺が横たわっている。
「今もこの棺にツタンカーメンが眠ってるんだよ」
と言うと、U子はニンマリ笑った。
ニンマリと。
ただ一度だけ。

実はこのときU子は体調を崩していたのだ。ツタンカーメンの墓から出てきた時にはオシリス神のように真っ青な顔色になっていた。

さては早起きをして疲れたか。階段で緊張しすぎたのか。それとも、これがツタンカーメンの呪いというやつか!?
……なんて、冗談を言える雰囲気ではない。
それほどU子の状態は悪かった。昼前だというのにホテルへ入り、午後はひたすら眠らせた。

ミイラ!

U子は疲れが出ただけだった。あまりの刺激に身体がついてこられなかったのだろう。脳みそも興奮しすぎて何度もてんかん発作を起こした。だが幸い、危険な状態にはならず、安静にしていれば治るものだった。

翌日、たくさん眠ったU子はすっかり絶好調! 笑いっぱなしだった。
嬉しくって。
楽しくって。
車椅子からずり落ちそうなほどに笑っていた。
あんなにハッピーなU子の笑顔は、エジプトへ来てから……というより、今までの人生でも初めて見たくらいだ。
U子の笑顔に、私たちも幸せだった。

U子の体調がいいのでこの日はみんなたっぷりと観光することができた。椿はカルナック神殿の羊のスフィンクスを見て「メリーさんの羊」を熱唱してくれた。

エジプトへ行くにあたって、4才の椿にはいろいろと教えこんでいた。ピラミッド。スフィンクス。アヌビス神。アテン神。それからもちろん、ツタンカーメン。

だが、なんといっても椿の一番にお気に入りは「ミイラ」だった。図書館で借りた絵本にミイラの作り方が詳細に描かれていたのである。

死者の内臓を取り出し・・・
遺体を塩漬けにしたあと包帯で巻き・・・。

幼稚園児の教育上どうなのよ、ミイラの作り方って。

ちゃんと理解できたとは思えないが、どういうわけか、うちの4才児はミイラにはまってしまった。おかげでエジプトに着いてから毎日ミイラ攻めである。

「今日はミイラ見るの?」
「明日はミイラ見るの?」
「ミイラは?」
「ミイラは?」
「これミイラになっちゃうの?」

ミイラに憧れる4才児って、どうなのよ。

ルクソール博物館ではとうとう本物のミイラに会えることになり。
「椿、おいで! ミイラだよ!」
呼べば走っていく椿。
母親に抱きあげられて、ついに!
憧れのミイラとご対面!
「ほら、どう? 本物のミイラだよ!」
「こーわーいー!」

わんわん泣き出して、すこし、ほっとした。
こうして椿のミイラブームは終わった。

私の大好きな遺跡

ルクソール3日目は2つの遺跡を訪れた。

一つはハトシェプスト葬祭殿。壮麗でモダンなつくりの遺跡である。階段の横にスロープがあり、車椅子でも上ることができる。アフメド君が大変だったけど。

ハトシェプスト女王葬祭殿の巨大スロープ

 

もう一つはメディネト・ハブ神殿。こちらは一般的なツアーには組まれていないことが多い、ちょっとマイナーな遺跡である。私はここが大好きなのだ。

遺跡にもいろいろある。ピラミッドのようにその大きさで圧倒されるものもあれば、思わず見惚れてしまうほど美しいもの、崩れ果てても大きな歴史のうねりを感じさせるもの。

メディネト・ハブは、写真を撮るより壁画を観るより、まずは目をとじて耳を傾けてしまう遺跡だった。観光客が少ないせいかもしれない。

静かだった。静かで静かで。
中庭から青空が見える。
柱に囲まれた回廊。
そして、たくさんたくさんの文字。刻まれたヒエログリフ。壁一埋めつくす言葉たち。

文字は心だ。
文章は声だ。
深く深く刻まれた文字は、何千年経ってもなお、見る者に語りかけてくる。
回廊に立ち、じっと耳をすませていると、ヒエログリフの語る声が……古代人のざわめきが、そよ風にのって聞こえてくる。メディネト・ハブはそんな雰囲気のある遺跡だ。

相変らずU子は幸せそうだった。懸命に顔をあげ、目をひらいて、見られる限りのものを観ようとしている。声をあげて笑い、体中で喜びを表現した。

U子が一番喜んだのはガイドさんの解説だ。知的障害のある人や意思表示の難しい人は、
「この人は何も分らない」
と周囲から誤解されることがある。でも、何も言えなくても、黙っているだけの人でも、実はちゃんと理解していることもあるのだ。小さな子供が大人の話を意外なほど理解しているのと同じように。U子だってうまく話せないし、文字を書くことも計算することもできないが、そのくせエジプトの歴史については私より詳しいのだ。

ルクソールの現地ガイドは本物の考古学者だったから、きわめて熱心に、どこまでも詳細に解説してくれた。U子はますます喜んだ。誰よりも真剣に耳を傾けた。自分が歴史的な場所にいることを教えられ、確認することを喜んでいた。

10)奇声をあげる

エジプト6日目。カイロへ戻り、サッカラとダハシュールのピラミッドめぐりをする。

エジプトの人たちは子供が大好きだ。椿を連れているとしょっちゅう笑顔の人々に取り囲まれる。店に入ればアメやらオモチャやらオマケをもらうし、どんな怖そうな人でもとろけるような笑顔を見せてくれる。町を歩けば
「写真とってもいい?」
とカメラを向けられる。あまりにも頻繁に写真をせがまれるので、
「1枚1ドルもらおうかな」
とR子が商売を始めたくなっちゃうくらいだった(しなかったけど)。

夜は定番のナイル川クルーズ。船の中でごちそうを食べつつ、ベリーダンスショーを観るというものだ。
「ダンス!ダンス!ダンスみるの!」
わくわくしながら開演を待つ椿。だが、ベリーダンスというものはお姉さんがおヘソを出してくねくねと腰をふる色っぽいもの。あんまり子供むきとは言えない。椿は石仏のように固まっていた。

さて、このときのU子がまた大変だった。日本を出てから1週間。疲れがたまって限界に達したのだろう。ベリーダンスの音楽も身体に合わなかったとみえて、大きな発作を起こしそうな予兆があらわれた。体をつっぱらせ、キャーキャーと奇声を発する。

暴れるU子を母と私で必死になだめていると、白人の観光客が陽気に話しかけてきた。
「こんにちは!ショーを楽しんでる? 私の子供もあなたと同じように病気でね。あなたと同じように車椅子で……5ヶ月前に死んでしまったのだけれど」
おばさんはそう言って写真を見せてくれた。黒人の男の子だった。きっと養子だったのだろう。明るい笑顔の男の子。

「あなたを見るとあの子を思い出して、声をかけずにはいられなかったの。楽しい笑い声がここまで聞こえてきたわ。でも、もうちょっと良い子にしないとね。じゃあ、良い旅を!」
楽しい笑い声? U子の奇声が笑い声に聞こえたのか。発作直前の大暴れが楽しそうに見えたのか。私と母はポカンとしてしまって、何も言えずにおばさんを見送った。

余談 アナケちゃんの話

世の中には大人には見えないモノが見えてしまう子供がいるらしい。椿もそうだ。子供特有の霊感があり、幽霊のおじいさんと仲良く遊んだり、京都の骨董品市場で「お化けがいる」とひどく怯えたりした。

ルクソールに着いてから、椿はおかしな一人遊びをするようになった。どうも目には見えない「友だち」を連れているようなのだ。空想の友だちなんて珍しくもないが、椿の目にははっきり見えているらしい。会話をしたり、クスクス笑ったりしている。名前をきくと
「アナちゃんとアナケちゃん」
「わ、なんかエジプトにありそうな名前!」
ガイドのFさんが怯えていた。ていうか2人もいるのか。

気味が悪いので、R子は椿を説得した。
「エジプトの子は日本に連れて帰れないから、次の遺跡でバイバイしなさい」
そこで椿はハトシェプスト女王葬祭殿の奥に友だちを置いてきた。
「『いっしょに来たらダメなんだって』って言ったら、『じゃあ私たちも帰るね』って帰った」
しょんぼりしていた。大人たちはホッとした。

ツタンカーメン

エジプト観光のトリを飾るのは、カイロ考古学博物館だ。ここにはツタンカーメンの黄金のマスクなど貴重なものが目白押し!
椿は
「もうミイラは見ないからね!」
と宣言していたが、やっぱり何か見えたらしい。一歩、館内に入るなり
「こーわーいー!」
ギャンギャン泣き始めた。何千年も昔の古代遺物がずらりと並んでいる様子は、子供にとっては恐怖でしかないのだろう。おまけに椿には私たちの見えないモノまで見えてしまうから。何もない一点を指差して
「おーばーけーがーいーる!」
とか言うのはちょっと止めてほしい。
本気で怖くなってきたので、私は椿を必死であやした。
「ほーら、ワンちゃんだよ。可愛いでしょ!」
とアヌビス神を見せてみたりして。

そうして、ついにたどり着く。
カイロ博物館の目玉。
エジプト観光の目玉。
ツタンカーメンの黄金のマスク!
U子の大好きな『世界、ふしぎ発見!』に何度も何度も登場した、憧れの人・ツタンカーメンである。

U子はついにツタンカーメンの黄金のマスクと向かい合った。だがピラミッドの時と同じように、U子はなんにも言えなくなった。声をだすこともできなかった。U子の顔をみた母が
「あらあら、この子、泣きそうになってるよ」
と微笑んだ。

ツタンカーメンの黄金のマスクは何千年も前からずっとあって、何千年先までずっと輝きつづけるだろう。だけど長い長い歴史の中で、あの日あの時あの一瞬……あの一瞬だけは私たちのために時間を割いてくれたように思えた。ツタンカーメンはU子を待っていてくれたように思えた。

大感動の大人たちをよそに
「こーわーいー!」
相変らず目に見えぬものに怯えて黄金のマスクにに近づくことすらままならぬ椿。白目がちな顔がコワイのかなと思ってツタンカーメンの後ろに回ると、ふっと泣き止んで
「どうしてこのひと髪の毛を結んでるの?」
幼稚園児とはいえ女子である。黄金のマスクの髪型に注目していた。
「どうして、みつあみにしてるの?」
ほんとだ! ツタンカーメンの後ろ髪はたしかに三編みだ!おしゃれだね!
「かわいいね」
椿はやっと笑った。

そのあと私とU子は竹内海南江になりきって、
「そこではここでクエスチョン!」
と『世界ふしぎ発見!』ごっこをした。
どえらく恥ずかしかった。

ツタンカーメン

ホテルから見えるナイル川の夕暮れ

ガイドさん家にホームステイ

1月23日、私たちのエジプト家族旅行は無事に終了した。ここからは別行動になる。
母と妹たちは日本へ帰り、私は一人でモロッコへ向かう。今考えてみれば鬼のような所業である。当初は直行便で、ヘルパーさんにも来てもらう予定だったから、私が抜けても大丈夫だろうと気楽に考えていたのだ。U子のフライトが予想以上に大変だったから申し訳ない気持ちでいっぱいだけど、今更、予定を変えられない。

エジプト観光が終わったのが1月23日。私のモロッコ行きのフライトは翌日の24日。カイロにもう一泊しなければいけなかった。ツアーはもう終了しているので、私は
「自分で安宿を探します」
と言っていたのだが、
「いや、危ないって!」「やめとき!」
母と、それに現地ガイドのFさんにものすごく心配されてしまった。私は自分で思ってるよりも頼りなく見えるみたい…うん、たしかにヘタレだけどさ。一人旅もだいぶ慣れてきたから大丈夫だよ?
しかしFさんが親切にも
「うちでよければ泊まっていいよ」
と言ってくださり、母を安心させるためにも、ご厚意に甘えることにした。

Fさんのお家はカイロでも比較的上等な住宅地にあった。シンプルできれいな真新しいマンションに見えたが、Fさんは
「家賃は日本と変わらないほど高いのに、とても人間の棲家じゃないのよ!」
と、語る語る!

新築なのに電気の通ってないコンセントがいっぱいあるとか、新品の電気製品を買っても高確率で壊れてるとか、すぐ隣にモスクがあって毎朝5時のアザーンで叩き起こされるとか。聞いてる私はおもしろかったが、旅行をするのとそこに住むのはやっぱり違うんだろうなと思った。

私が一番驚いたのは、マンションのエレベーターに乗り込み階数のボタンを押したときだ。
なんと! エレベーターが歌いだしたではないか!
「★Ш④※×М&△◎……!」
男の声で、もちろんアラビア語で、元気のいい歌声が流れはじめたのだ。
な、な、なんですかこれは!?
「何って、コーランの一説だよ」
とクールな様子で答えるFさん。
「なんだか知らないけど、動くたびに歌うんだよねー。ボタンを押しても押してもこの歌が聞こえてこない時は『あ、壊れたな』ってわかるわけ」
マンションのエレベーターにコーランを読ませる意味がわからないな。ムスリムなエレベーターは、私たちを降ろすとまたにぎやかに歌いながら下の階へと降りていった。

その夜はFさんにスーパーマーケットに連れていってもらい、食料とともにモロッコ行きに必用なモノを少し買い足した。そして翌朝は隣のモスクのアザーンで飛び起きた。ほんと、頭が痛いくらいガンガン響くな!

私はFさんにお礼をいって空港へと向かった。そして同じ頃に母からメールが届いた。
「無事に帰り着いたよ! 機内ではみんなよく寝て楽だった」
なんだかとてもホッとした。そしてこのメールを最後に夢の旅行は終わりを告げた。家族旅行は終わり……私の旅が始まったのだ。
モロッコの旅行のお話は、またの機会に。


21. 車椅子でエジプト旅行(2)目指せピラミッド!

家族旅行

2007年、重度障害者のU子を連れてのエジプト行きは、当初はヘルパーさんに同行してもらうつもりだった。それで私は一人でモロッコへ寄り道して帰るを計画を立てたのだ。が、いろいろあって結局は家族のみで行くことになってしまった。

私は当時32才。アウトドアの職場でこんがり日焼けしていた。
U子は25才。体力的にも人生のピークだろうと思われた。

母はそろそろ還暦というお年頃。股関節を傷めて杖なしには歩けない障害者。とはいえ杖をふりまわしてドカドカ歩き、障害物があればブルドーザーのようになぎたおして進んでいく。スーパーマンのようにパワフルなおばちゃんなので本人はもちろん誰もそんなこと気にしていなかった。

私より2才年下で言わずとしれたツワモノであるR子は国際結婚をして、このときは台湾に住んでいた。

そしてR子の娘・椿。4才。夢はプリキュアになること。天真爛漫な幼稚園児。正直いうと、このエジプト旅行を思い出すとき誰もが
「椿が可愛かったねー!」
しか言わないというありさまである。

「女5人の気まま旅だね!」
と誰かに言われたが……気ままにもほどがあるメンバーだ。
U子の障害は一級品だし、母だって杖が必要だし、椿なんて、まだ4才。4才児を連れてエジプトへ行くのってどうなの? 車椅子を連れていくより大変じゃない? と思われるかもしれないが、この4才児がツワモノなのだ。日本語・英語・中国語を話すトライリンガル、飛行機なんて慣れたもの、グズるどころか介護を手伝ってくれる。なんでも食べるしどこででも眠る。頼もしい限りの幼稚園児であった。さすがR子の娘である。

飛行機

手配の段階でおそろしく手間取ったエジプト旅行は、ギリギリにすべてが間に合って、奇跡的に出発までこぎつけることができた。

人数も多いし、とにかく荷物が膨大だ。半分はU子の紙オムツである。スーツケース1個半くらい占めていたと思う。

飛行機はドバイ乗り継ぎのエミレーツ航空。車椅子ユーザーのU子は乗り降りだけで大騒動だ。カイロもドバイも空港職員は障害者慣れしていないうえにタラップである。タラップにリフトがある空港はいいが、田舎の空港ではお姫様抱っこで下ろしてもらうしかなかった。イケメンのスチュワードさんだったけどな!

問題だったのは、やはり長時間のフライトだ。U子は乗り物が大好きで、車も電車も飛行機も乗り慣れているし、これまでは何時間のっても平気だったから大丈夫だろうと高をくくっていたのだ。

ところがエジプトはほんの少し遠すぎたらしい。体が辛くてなかなか眠ることもできず、これまた大騒動だった。

乗り継ぎのドバイに到着すると、謎の小部屋に連れていかれた。高齢者や子供や体の不自由な乗客ばかりが集められている。
「次のフライトまでここで待て」
という。待合室というには狭すぎるし、何もなさすぎる。レストランへ行こうとしたら職員に止められた。
「ここにいてもらわないと困る」
なぜだと聞いても返事がない。職員も理由を知らないらしい。なんだこれは? 障害者保護という名の監禁じゃないか?
「お腹がすいたから食事にいく! 時間までには絶対に戻ってくるから」
と無理をいってマクドナルドへ行った。マック・アラビアはおいしかった。

エジプト到着

大騒動の末にようやくたどりついたエジプト。
出迎えてくれたのは

・スルーガイドのFさん(日本人女性)。
・カイロの現地ガイド
・現地アシスタント
・アシスタントのアシスタント(使途不明)
・空港アシスタント
・バスドライバー

総勢6人! 客より多い!
その後も常に、最低でも4人のスタッフが同行してくれた。なんとムダに豪勢な旅行であることか。

私たちが到着したとき日本人ガイドのFさんはびくりした様子で固まっていた。
「あら~車椅子なんですね」
え、まさか聞いてなかったんですか?
「ぜーんぜん!」
旅行会社のM氏はどこまでも仕事のできない男である。が、もしかしたら、障害者2人と幼稚園児というメンバーを聞いたら仕事を受けてもらえないと考えたのかもしれない。

旅行会社に組んでもらった旅程は、一日の半分が「お昼寝」に当てられていた。

午前: 観光
レストランにて昼食
午後: フリータイム
ホテルにて夕食

というのが基本パターン。普通では考えられないほどゆったりした、ムダの多い日程にみえるが、障害者と4才児のためのプランだ。これくらいでないと身体がもたない。

カイロに着いたのは昼すぎだったが、午後からもなんの観光予定もなく、日程表には
「ホテルにてごゆっくりおくつろぎ下さい」
と書かれているのみ。
ホテルでごゆっくりおくつろぎ?
試みてはみたけれど・・・じっとはしていられなかった。
「リゾットが食べたい!」
2年前の下見のときN美と見つけた絶品イタリアンの店。ふざけたロバート・デ・ニーロみたいな店員さんがいる店。家族みんなを引き連れてぞろぞろ歩いて行ってみた。
「何階?」
たしか2階だった。エレベーターで2階へ昇る。
だがそこに目指すレストランはなかった。
「3階の間違いだったかな?」
昇ってみた。
3階にもなかった。
「じゃあ4階は?」
「5階は?」
「6階は?」
全ての階を調べ、念のため1階に戻って確認したが、それでも見つからない。
「つぶれたんじゃないの?」
「そんなはずないよ。もう一度2階を見てみようか」
2階に戻ってみた。
そしたら。
「さっきと違う!」
見たことのないフロアが現れた!
一体どういうことだろう?
さっきと同じエレベーター、さっきと同じ2階のはず。
なのに。
エレベーターを降りるとすぐそこにイタリアンレストランが!
さっきは絶対に無かったぞ、なぜだ!?

狐に騙されたような気分だったが、レストランは現実にそこにある。ふざけたロバート・デ・ニーロみたいな店員さんもちゃんといたし、パスタもリゾットも相変らず激ウマだった。なんだかよくわからないが、まあ、エジプトだから不思議なこともあるんだろう。

ピラミッド

エジプト2日目。
いよいよ観光が始まった。
夢のピラミッドとご対面である。

ピラミッドの待つギザ台地まで約13キロ。私たちを乗せたマイクロバスは渋滞にもはまらず順調に走っていった。

そうして走るうちに、バスの左の窓から・・・見えたのだ。
青く霞んだ三角の影が。
「うわあ、見えた!」
母が声をあげる。
「どこどこ?」
R子が首をのばす。
現代的なビルのならぶ向こう、四角い民家のむこうに、ピラミッドの先っちょが覗いている。本当はまだ顔を見せたくないのだけれど、あまりにも巨きいので頭だけ出てしまったかのように。

最後の角を曲がると目の前に。
すぐそこに。
クフ王のピラミッドがそびえていた。
私は隣に座っていた椿にこう教えたことを覚えている。
「見てごらん。あのお山がピラミッドだよ」
まさに『山』と呼ぶのにふさわしい大きさだ。
天空を突き刺し、真昼の太陽に届くくらいの大きさだ。
これを人間がつくったのだ。
古代の人間がつくったのだ。

チケット売り場を通りぬけ、バスから降りて、いよいよピラミッドに近づいていく。
……なのだが。
予期していたとおり。
覚悟していたとおり。
地面はガタガタ。
車椅子、ガタガタ。

ギザのピラミッドは固い岩盤の上に建てられている。そのおかげで何千年も保たれているのだが、逆に言えば、この黒い岩肌を数十メートル走破しなければ真下までたどりつけない。健常者には平坦に見える岩場でも、車椅子にとっては溝や段差だらけのとんでもない悪路なのだ。ギザギザのギザ台地。
「どうします? ここから見るだけにしますか?」
ガイドのFさんに訊かれた。
「実は私、ちょっと腰痛になっちゃってお手伝いできないんです」
ガイドさん、ツアー2日目の朝にしてギックリ腰だった。厄介な客に当たってしまったことによる心労かもしれない。私はサロンパスをあげた。

どちらにせよガイドさんは介護戦力外である。大事なのはそこじゃない。私はU子に尋ねた。
「ピラミッドに触りたい?」
U子はずっとうつむいていた。障害のせいで顔を上げることが難しいから、車窓からの風景など何も見えなかっただろう。バスを降りてはじめてピラミッドに対面したが、感情を表す余裕はまだなかった。

ただ、ガチガチに緊張していた。興奮すると体中が強張る。エジプトにきたこと、ピラミッドを見られること、エジプト人のドライバーさんに抱っこされてバスを乗り降りすること。聞き慣れない音、言葉、匂い。全てのこと興奮し、緊張していたのだろう。それでも私が
「ピラミッドの石に触りたい?」
と問いかけたときは、
「うん」
小さい声で返事をした。それがせいいっぱい。でも、十分だ。
「よし、行こう!」

妹の望みを叶えるため、私とR子で奮闘したが、ギザ大地は手強くて車椅子は押しても引いても進まない。そのとき
「私も手伝います!」
現地ガイドの若い女の子・Mちゃんが手を貸してくれた。3人がかりで車椅子を持ち上げ、ガタガタの地面を乗り越えながら進んでいく。
時には後輪だけで走らせ、時には段差を越えながら。
U子はますます体を強張らせながら。
必死の思いでたどりついた。
ピラミッドのふもとへ。

夢のピラミッドを目の前にしても、U子の反応は鈍かった。身体を強張らせてうつむいたまま。
「来たよ!ピラミッド!」
顎を支えてやるとようやくニッコリ微笑んだ。嬉しくて嬉しくてたまらないのだが、嬉しすぎて現実感がなく「夢の中にいるみたいでボーッとしてた」とあとで語った。

私もなんだか不思議な気持ちだった。ピラミッドに来るのは3度目だ。
最初は一人で。2度目は友達のN美と。そして3度目は家族と・・・U子と。
母や妹たち、ちっちゃい椿まで一緒になって、ぽかんとピラミッドを見上げている。

シンジラレナイ。
ピラミッドニ来チャッタヨ!

ぼんやりしたまま
「ピラミッドは私達の夢だったんですよ」
と話すと、現地ガイドのMちゃんが、にっこり微笑ってこう言った。
「Congratulations!(おめでとう) Dream Come True!(夢が叶いましたね)」
・・・ドリーム・カム・トゥルー。
この言葉は私には縁遠いものだった。他人のための言葉だった。その言葉がMちゃんの口から出てきたことで、私はちょっとびっくりしたくらいだ。
「Dream Come True!」
ああ、そうか。夢って叶うこともあるんだ。

杖をついてでもピラミッドにのぼった母と椿。今はのぼったらダメなんじゃないかな

だが感動にうち震えてるヒマはない。歓声をあげて走りまわる椿を捕まえておくのがたいへんだったからだ。4才児にとってピラミッドはでっかい「お山」。広がる砂漠はでっかい公園みたいなもんだ。
「みんなで遊びに来れて嬉しいね!」
うん。みんなで来れて、嬉しいね。

ちなみに、オーパーツだとか宇宙人が作ったとか、好きなことを言われているピラミッド。クフ王の玄室では必ずと言っていいほどミステリアスな人々に出会う。前回私がのぼった時は、祈りを唱えつつつ宇宙人と交信を試みているグループがいた。今回のぼったR子の話によれば、
「白人のおばちゃんがものすごいエビぞりをしていた」
らしい。ミステリアスなピラミッド、私たちの夢のピラミッドは、オカルトの聖地でもあるのだ。

ちなみに、カイロ近郊にはピラミッドがたくさんある。助っ人の男性を雇ったので、サッカラでは問題なく近づくことができた。

椿を肩車しつつ車椅子を押しつつ

 

砂利道ではこのように前輪をあげて進みます。日本でヘルパーさんがやったらたぶん怒られるやつ

砂利はこんな感じ。

ギザのピラミッド周りも今は遊歩道が整備されて車椅子でも問題なくなった、という噂を聞いております。しらんけど。


20. 車椅子でエジプト旅行(1) 下見の旅

U子を連れてエジプトへ

「妹と一緒にエジプトに行きたい」
そんな夢をみはじめたのはいつからだろう?…あ、妹といってもR子ではない。あんなタフなやつはその気になればいつだって行ける。私たち三姉妹の末妹、U子のことだ。

U子は身体と知能に重度の障害をもってうまれてきた。生活のすべてに介助を必要とする体だ。歩くどころか自力で起き上がることさえできない。もちろん車椅子生活でオムツをつけている。

言葉も30語ほどしか話せないし、読み書きもできないし、口まで運んでもらわなければ食べられない。手も、棒きれのような腕にぎゅっと握った拳がついているばかりで、ほぼ使い物にならない。身長は私たち姉妹の中で一番背が高いくせに体重は30キロぽっちしかない。

それでもU子は幸せに暮らしていた。と、思う。本人に聞かなければわからないけど。母が「お出かけは最高のリハビリ!」をモットーに育てたせいで、とんでもなく遊び好きの障害者に育ちあがったのだ。映画館、温泉、カラオケ、外食。週末ごとにヘルパーさんと遊びに出かける。良いご身分だ。

そのうえ母はU子を旅行につれまわした。国内はもちろん、アメリカやグアムやオーストラリア(これはR子の結婚式だった)、知的障害者のツアーでバリ島まで行った。そういう下地があったので、エジプトへだって行けるじゃないかと私は考えた。

なぜエジプトなのかというと、U子は『世界、ふしぎ発見!』というクイズ番組の大ファンなのだ。毎週ぜんぶ録画して毎日見返すほどのマニアである。『ふしぎ発見』といえばエジプトだ。実際にエジプトへ行って本物のツタンカーメンの前で
「それではここでクエスチョン!」
とやりたいかどうかを尋ねたら、U子は大興奮して
「うん!」
と答えた。
決まりである。U子をつれてエジプトへ行こう!

2005年 下見

が、問題がある。
実際に行ったことがあるからわかるんだけど、エジプトはどう考えても障害者むきの旅先とはいえない。砂漠に車椅子はどう考えてもツラい。私とU子の前には大きな大きな障壁が立ちはだかっていると言えよう。

そこで下見をすることにした。
「U子を連れて行けるか行けないか、実際にエジプトへ行ってたしかめてみよう!」
下見の旅に出かけたのは2005年のこと。ケニアに一緒にいったN美が、また安いツアーを探して同行してくれることになった。

12年ぶりのエジプト!

18才のとき、初めての海外旅行でどきどきしながら観光バスを下りてから12年が経った。私ももう三十路に差し掛かっている。なかなか感慨深いものがある…あれからいろんな旅をして、私もずいぶん、ふてぶてしくなったと。

12年前、初めてツアーを離れてカイロの街角に立ったときは、周りは悪い人ばっかりですぐに殺されるんじゃないかと本気で思い込んでいた。

ところが今や、世の中にはいい人がたくさんいることも知っているし、悪いやつほど優しい顔で近づいてくることも覚えたし、お財布とパスポートさえ安全ならどこへでも行ける自信ができた。まあ、私もおばさんになったということだ。

そのせいか初回とはまったく違う目線でエジプトを楽しむことができた。
一番感動したのは壁画にびっしりと書き込まれたヒエログリフだ。

墓の内部も棺も神殿の壁も埋め尽くす絵文字・・・古代の人々の「言葉」。
言葉は人の心を直接伝える道具である。たとえ形式的な文書でも、天国へいくための呪文でも、その役割は変わらない。文字は彼らの声を伝える。すべてが砂に埋もれ、人々が死に絶えても、石に刻まれた文字は話しつづけている。

時には大きな声で、時にはひそひそ声で。
古い古い彼らの言葉で、昔むかしの彼らの声で。
低周波の超音波みたいに、耳には聞こえないけど確実に話し続けている。
3千年たった今でも尚。
そしてこれからも永遠に。

犠牲祭

下見では自由時間の多いツアーを選んだ。安いからというばかりでなく、車椅子の入れそうな遺跡や店を探すのに都合がよかったからだ。私とN美はタクシーをチャーターして遺跡をめぐり、カイロの街歩きを楽しんだ。ハードな旅が続いていた私にすればのんきで気楽な旅行だった。

予定外だったのは、犠牲祭にぶち当たっていたこと。犠牲祭はイスラムの大きな祭で、羊や牛を解体してごちそうを振る舞うというイベントだ。兵庫県の一部では春になるとすべての家でいかなごを炊いて街中にいかなごの匂いが漂うが、それの生肉解体版といったところ。

ガイドさんが楽しそうに言った。
「ヤギや羊の解体が街中どこででも見られますよ!」
絶対に見たくないです!

町をあげてのお祭りは午前中に終わるということなので、その時間帯は市街を離れ、ピラミッドを見に行くことになった。解体ショーが終わってから戻ればいい。

おかげで解体そのものは見ずに済んだ。が、ちょっと下町を歩けばそここに解体の名残りが転がっているではないか。血まみれの何かだったり、ネパールでおなじみのヤギの生首だったり、まあ、なかなか凄惨である。
「牛のひらき…牛のひらきが干してある…」
N美は蒼白になっていた。壮絶な臭いにやられたのだろう。私は鼻がわるいのでわりと平気だった。

肉の匂いがするせいか猫たちがウロウロしていた

下見のチェックポイント

犠牲祭をのぞけば楽しくのんきな旅だった。が、私にとってこの旅のメインはあくまでも「下見」である。車椅子の重度障害者・U子を連れてくるための下見。

どの遺跡なら車椅子が入れるか?
ピラミッドは車椅子で近づけるか?
博物館の段差はどうか?
ホテルは使えるか?

もちろん、詳しい人に聞いたら教えてくれるのかもしれない。でもそれでは十分ではない。旅行会社のひとはU子のことを知らないし車椅子にも慣れていないから、U子にとってこの段差を乗り越えられるかどうかなんて、わかりようがない。

実際にこの目でたしかめた私は「なんとかなるんじゃない?」という結論に達した。

考古学博物館はほぼバリアフリー。
ホテルもラムセス・ヒルトンなら大丈夫。バリアフリールームじゃなくてもU子なら使えるレベルだ。
ピラミッドはむちゃくちゃ大きいから、どこからでも、車からでも絶対に見える。
ルクソール神殿もカルナック神殿も、多少の段差はあるものの、越えられないほどではない。
ハトシェプスト女王葬祭殿なんて大きなスロープがついてるし、メデイネト・ハブは美しくて気持ちのいい遺跡だからU子はきっと気に入るだろう。
王家の墓も、スロープになっている墓を選べば入ることができる。ラムセス4世と9世の墓なら大丈夫。

カイロでは美味しいイタリアンのお店を見つけた。
「あの店員さん、ふざけたロバート・デ・ニーロみたいだね!」
とN美がいった。店員はふざけた顔をしているが、リゾットが絶品で、ホテルのすぐ隣りだから車椅子でも余裕で行ける。ここは掘り出し物だ! U子も母もエジプト料理は口に合わないかもしれないから、そのときはこの店に食べにこよう。
そんなふうにメモをつけて観光していた。

車椅子旅行の手配がギリギリすぎた

「今年こそU子を連れてエジプトに行くぞ!」
と決意表明をしたのは、下見から2年後の2007年のこと。お金を貯めるのにそれくらい時間がかかった。

重度障害を連れての旅だからパックツアーはまず無理だ。旅行会社に頼んで、航空券にホテル、ガイドなどを組んだオリジナルツアーを作ってもらおう。

もちろん私が旅行会社の手配をしようと思っていたのだが
「車椅子に慣れているところがいい」
と母が言いだした。
「大手から独立した専門の会社があるのよ!Mさんはよく知ってる人だから大丈夫!」
それでMさんの会社に頼むことになった。

ところが!
これがとんでもないことになってしまった!
あまりにも大変だったので今でも悪夢に見るくらいだ。
思い出すのもしんどいから箇条書きにしていこう。

・ 出発3ヶ月前に「エジプト航空の直行便」で確約。
・ なぜか1ヶ月前にようやくフライト時刻が判明
・ 数日後、担当のM氏から電話があったが出られず。「また電話します」と留守電にメッセージが。
・ 何度かけ直してもM氏は常に不在。何時でも不在。
・ M氏からの連絡はいっさいナシ
・ ようやく連絡がとれたのは10日後。
・ 「10日前に電話を頂きましたが?」
と尋ねたところ
「すみません、フライトがとれませんでした」

フライトがとれませんでした、だと? 確約どこいった?

この時点で出発の20日前。
3ヶ月も前に申し込んだというのに、いまさらフライトが取れないって、どういうことだー!
そんな重要な話なのに10日間も連絡をよこさないとは(FAX連絡すらなかった)何を考えてるんだー!

「それが、席を大手にぜんぶ取られてしまって。うちは小さい会社なので弱いんです」

知るかー!と思ったが、怒っても仕方がないので
「なんでもいいから早くフライト取ってください!」
妥協して妥協して、日程を変更までして!
ようやくドバイ経由のエミレーツ航空が取れたとFAXが来た。

ところで、私はエジプトのあと一人でカサブランカまで行く予定である。
「カイロ-カサブランカ間」の往復チケットが2万円と聞いて手配してもらっていた。
ところが、留守のあいだに送られてきたFAXを確認したところ、カサブランカの出発の日にちが間違っているではないか。
乗れないよこんな飛行機!

この時点で12月29日の夜。
年末である。
電話をしたら
「本年の営業は終了しました。
来年は1月9日からとなります」

11日間も休むのかー!

担当者M氏の自宅に電話攻撃。

休日出勤させて日にちを変更をしてもらった。
しかし回答がきたのは週明けだった。
日本-カイロ-カサブランカ-カイロ-日本
チケットの確認ができてやっと
「完璧!」
と胸をなでおろしたのは1月10日。
出発の5日前である。

そのとき私はハタと気がついた。
「お金、払わなくていいんですか?」

頼んでいたのは航空券だけじゃない。
エジプトのホテルもガイドも全部ひっくるめて頼んでいる。
(航空券以外は問題なかった)
5人分だから100万を越える額になるはずだったが、見積もりを口頭で聞いていただけで、詳細も振込先もなーんにも送ってよこさない。
お金、いらないのか?

「今すぐ請求書をFAXしてください」
と言ってようやく請求書がきたのが、1月11日。
エジプト出発まであと4日!

送られてきた請求書を見て、またしても驚いた。航空会社を変更したため全体的に高くなっているのだが、2万と聞かされていたカサブランカ往復のチケット代がなんと8万6千円になっていたのだ。4倍以上の値段である。
理由は
「2万円はエジプト航空の乗り継ぎ便の値段だったんですよ。
こんなに高いなんて、ぼくも今日知ったんです」

その場に私自身がいなくてよかったと思う。
怒りのあまり何をしでかしたかわからない。
カサブランカ往復のチケットはキャンセルし、その日のうちに別の旅行会社から手配しなおした。少し安く買えた。

手配旅行だからツアーみたいに確固たる契約書はなかったし、こちらも呑気すぎたと思う。
それにしても、あまりのいいかげんさ、誠意のなさに、びっくりするやら呆れるやら。
怒り心頭。
もう一生、この旅行会社は使わないだろう。

「すみません、なにぶんうちは小さな会社なもんで」
M氏は二言目にはそんなふうに言い訳をしていた。
小さくてもしっかりした会社だって多いはずなのだが。
これがトラウマになり、2013年にウィーンへ行くときには「大きな会社に頼もう」と思うようになった。

さあ、こんな頼りない極みの手配でちゃんとエジプトへいけるのか?
モロッコにはたどり着けるのか?

・・・それは行ってのお楽しみだ。


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