苦労なんかしていない

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「あんた、苦労してきはったんやねえ」
と言われた。
雑誌の記事を読んでくださったのだろう。
「お母さんがそんなに若くで、妹さんも介護が必要で、ほんま大変やったのねえ、よく頑張らはったねえ」
とほめてくださった。
ありがとうございます、とほほ笑んで返しながらも、

えーと苦労? したっけ?
なにか苦労したっけ?
と、すっごい自問自答してしまった。

友達に訊いたら
「そりゃあんた、介護してる=苦労してる、でしょ」
と言われた。

妹が重度障害者だっていう時点でまず「苦労」なんだって!
それから現在も親の介護してるからそれで「めっちゃ苦労」なんだって!
ハタから見たら私の人生、そこそこ苦労人なんだって!
うっわー知らんかった、と素でびっくりした。

「苦労」は暗くて重たいイメージの言葉だ。ちょっと気の毒なイメージだ。でも私は自分の人生を「めっちゃオモロイ!」と思っている。

私は就職とか結婚とか子育てとか、いわゆる「普通の人生」からドロップアウト…どころか、一回も乗ったことないんだけども。そのぶん、ネタはいっぱい持っている。
ブラック企業とか、世界の下痢と迷子の旅とか。
介護ネタも幼少期から持ってるんだからまあまあ豊富。
「笑えるネタいっぱい持ってるおばちゃんになる」
が人生目標のひとつなので、その意味では順風満帆だと思うんだけど。

拙著『おでかけは最高のリハビリ』の執筆で一番大変だったのは、編集さんに
「もっと苦労話を書いてください」
と求められたことだった。

編集「苦労話を書いてください」
私 「ないです」
編集「そんなこと言わずに」
私 「いや、ないですて」
編集「思い出してください」
私 「べつに苦労してないです」
編集「えええ・・・何か他のエピソードはありますか」
私 「じゃあ、この話はどうでしょう」
編集「それそれそれ苦労話!」
私 「知らんかった」

しんどかったこととか、落ち込んだこととか、あるにはあるんだけど、ぜんぶきれいに忘れてしまう。というか、すべて「ネタ」として昇華してしまうから「苦労」という言葉と結びつかない。

これはきっと私が関西人なせいで、自分自身をネタに笑いをとる癖があるからだと思う。

私  ブラック企業で働いてたとき、めっちゃ走らされてん」
友人「走るってどれくらい?」
私 「毎日20km」
友人「マラソン大会か!」
私 「毎日がマラソン大会や。足めっちゃ速なったから、ハーフマラソンに出ようか考えてんけどな」
友人「出たの?」
私 「参加費とられるから止めたわ。同じ距離を走っても、仕事ならお金もらえるもんな」

私 「中東行ったとき、タクシーの運転手に襲われかけてなー」
友人「ええええ」
私 「暴れた蹴り飛ばしたら、たまたまタマにヒットしてなー」
友人「漫画か!」

私 「おかーさんが脳卒中の後遺症で、私のことが分からんようになってもてな」
友人「えええ大変やん」
私 「うけるで?『あんた誰?』って言われるねん」
友人「えーキッツいな」
私 「いや、せっかくやから『こんにちは、檀れいです♪』とか名乗ってみるねん」
友人「ど厚かましいな!」
私 「すぐバレたけどな。次の日は『こんにちは、北川景子です♪』って言うてみたわ」(実話)
友人「どこまでやるのん」

実際にこんなノリなのだ。ネットで知り合った方にお会いするとだいたい「文章そのままですね」って言われるから間違いない。

・・・そういえば。

母が倒れて一番大変でつらかったときに
「そんなこと笑って話すんじゃないよ」
と叱られたことがある。「じゃあ泣いて話せばいいんですか」と私は怒鳴り返した(ちなみにその人は今の上司だ)。
本当につらい時は、本当にどうしようもなくて、笑うしかなかった。
そして笑うことができたから、生きていけた。

根本近くで折れた寒菊が、ちゃんと花を咲かせていた

私の人生すべてがネタだ。
しんどいことも、つらいことも。
理想と違うことも、二度とやりたくないことも。
すべては大事な経験だ。
手放したくない、私だけの宝物だ。
けれど、ハタから見ればそれを苦労と呼ぶらしい。
なんかちょっと同情までされるらしい。
それはとても意外で心外なことだ。私はこんなに幸せなのに。

『あんた苦労人やねえ』と同情してくれた人に
「この顔が苦労してるように見えます?」
と尋ねたら
「・・・見えへんなあ」
と言われた。
せやろ?
苦労人の顔とちゃうやろ?
自分でもそう思うわ。苦労なんか、してへんから。…私はただの、幸せ者だ。