母には脳出血の後遺症がある。
 血管性認知症。
 高次脳機能障害ともいう。
 今はもう治ったが、ちょっと前まではそれはもう、実にいろいろな妄想をみていた。
自分の左手を末娘のU子だと思い込んでご飯を食べさせたり。
 誰にも見えない子供が走りまわってると言ったり。
 私のことを「ニセモノだ!」と言ったり。
 「私の夫は死にました」と、当の夫にむかって宣言したり。
 亡くなった祖父母がベッドの下でならんで寝ていると言ったり。
 妹には夫が2人いると言ったり。
だが母自身は何ひとつ覚えていない。
 「ええっ、私ほんとにそんなこと言ってたの? おもしろーい!」
 大笑いしている。
 「録画しといてくれたらよかったのに!」
 涙を流して笑っている。
 いや、ほんとにおもしろかったよ。
 毎日毎日、思いもよらないことを言うから楽しかった。
 まあ、祖父母が生きている、というのはほんの去年まで言ってたんだけどね?
 もうすっかり治っちゃったんだなあ。
 つまらないなー。
 「じゃあ、もう一回やろうか?」
 ・・・それはいらない。
今の母はもう妄想をみることはなくなった。
 本も読めるようになった。
 映画もだいたい理解できるようになった。
 記憶障害や半側空間無視は残ってるけど、それでもずいぶんマシになった。
「あんたのお母さん、あれだけ酷かった高次脳が、よく治ったねえ。奇跡だねえ!」
ってたまに言われるんだけど。
 そのたびにモヤモヤする。
 ・・・これは奇跡じゃない。
 奇跡なんてそんな、たまたま神様からもらった偶然みたいなのじゃない。
母はリハビリをものすごく頑張った。
 そして私は、なぜかはわからないが「絶対に治る」という確信を持っていた。
 だから高次脳機能障害をどうにか改善させようといろいろ工夫した。
ウィーンへ連れていったのだって、2人バイオリンを始めたのだって、元はといえばリハビリの一環である。
 私たちはただやみくもに突っ走ってきたわけじゃないのだ。
奇跡じゃない。
 狙ってやったこと。
努力の賜物なんだよ!



