あきらめる、ということ

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介護のつらさの一つに
「大好きな家族がどんどん変わっていくのがつらい」
というものがある。
あんなに元気だった人が。
あんなに何でもできた人が。
あんなにしっかりしていた人が。
別人のように変わり果ててしまう。

たとえばうちの祖父はとても賢い人だった。
だが末期には酷いせん妄がでて目も当てられない状態に陥った。
看病は主に、母と私と叔父の3人で行っていた。
叔父は
「あんなに賢かったお父さんが、馬鹿になってしまった」
と泣いていた。

たとえば認知症の人が何かを失敗したとき、介護職員なら
「これも認知症の症状だな」
と思うだけだ。
仕事だから知識があるからというよりも、認知症になってからの姿しか見ていないせいだ。
一方で家族は
「こんな簡単なこと、どうしてできないの!」
と怒ったり、悲しんだりする。
家族は元気な頃の姿をよく覚えていて、たとえば「お父さんは何でもできる人」「お母さんはきれい好きな人」というイメージが強いからだ。
こんな簡単なことくらいできるはずだ、と期待してしまうからだ。
できてほしい、と願うからだ。
だって愛しているからだ。

自慢じゃないけどその点、我が家は割り切っている方だと思う・・・愛情が薄いのかもしれない。
祖父の妄言に対して、母と私は
「おじいちゃんたら、またおもしろいこと言ってるよー」
とケラケラ笑いとばしていた。
「だって病気やん、仕方がないやん」
と思っていた。
オヤジが初めて失禁したときはビックリしたけど、「大丈夫だよ」と言ってやれたのは我ながら上出来だった。
職業的習慣だろう。

いろんなことがあっても悲劇的な気分にならないのは性格だと思う。
「のんきやねえ」
とよく言われる。
まあ、この先はわからないけど!

ただひとつ。
これから介護する方へ伝えたい。
・・・あきらめが肝心だと。

だって、しょうがないよ。
なっちゃったものは戻らない。
時は戻らないよ。
認知症は今のところ治せない病気だし、脳卒中のリハビリには限界がある。
そしてすべての人間はトシをとっていく。
老いていくのだ。
自然のことなんだ。

だから、あきらめてしまおう。
介護はあきらめが肝心。
失われたものはあきらめて。
残されたものを見つめていこう。
変わってしまった姿を認めてしまおう。
きっとその方が楽だから。
お互いに楽だから。

祖父はまるで別人のようになり、狂った妄想に取り憑かれてたけど。
それでも最期の言葉は「ありがとう」だった。
変わり果てた祖父の中にも、芯となるものは残っていたんだなあと思う。

本日の猫写真。
車椅子に行く手を阻まれるシシィ。
おこです。

通れにゃい!

うん、お母さんをどかすまで通れないな。
あきらめて?

コメント

  1. あきらめることができるまでの葛藤が、家族介護では一番大変なのかもしれないですね。簡単にあきらめられたら、自分も苦しまなくていいのに。お互いもっと楽に暮らせるのに。わかっていてもなかなかできないものです。自分ももしかしたらそうなるかもしれない、と当事者の立場になれたら、もう少し優しくなれるのかなぁ。

    • あきさん、そうですよね。
      頭と心は別物だから分かっていても受け入れるのが難しいです。
      心では無理でも、頭だけでも理解していたら少しは冷静でいられるかなあと思ってやっています。
      でも、できることとできないことはありますけどね。