自分のことは自分でするという幸せ

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長めのショートステイからようやく帰宅した利用者さんがこんなことを言っていた。

「年寄りは環境が変わるとボケるって、よく言うやろ。あれは違う。環境が変わるからじゃない。やることが無くなるとボケるんや。

一人で家にいると仕事が多い。洗濯して、猫の世話して、自分の食べるもんもなんとかせなあかん。そうすると頭を使うやろ。
洗濯すれば次は「取り込まな」って思う。猫がいれば、うんこ漏らしてないか気をつけんとあかん。トイレットペーパーがなくなる前に買ってきてもらわなあかん。食事は何をつくろうか、一生懸命、考えなあかん。考えんと生きていけん。

それが施設にいるとぜんぶ人がやってくれる。洗濯も掃除もしなくていい。うんこ垂れる猫もおらん。座ってれば自動的に食事が出てくる。
そうするとな。やることがない。考えることが何もないんや。歌うたったり習字をする時間以外は、ただ座って、食事を待つしかないんよ。一日がどんなに長いことか! どんなに元気な、しっかりした人でも頭がボーっとしてくるわ。

そりゃあ、しんどいよ。わし要介護3やもん。すごくしんどい。足は痛いし、腕はあがらんし、物忘れはするし。それでもできる限り、自分のことは自分でしたいなあ。頭つかって働いていたいなあ。それは幸せなことや」

私は反省してしまった。

要介護で。しんどくて。身体が動かなくて。難しくて。でも自分のことを自分でやりたい。それは幸せなことなんだって、言われたから。

介護者というものはついつい手伝ってしまいがちだ。何でもやってあげがちだ。思いやりではない。そのほうがお互いに楽だからだ。本人にさせるより、手伝ったほうがずっと早い。だからつい、やりすぎてしまう・・・「どうせできないでしょ」と思っている節もあるのだろう。

私は自分を省みた。たとえば母が暇なとき

「今日は何して過ごそうか。 本を読む? 買い物いく?」

というようにすぐ選択肢を与えてしまう。母は選ぶことがふ得意じゃないから、選択肢は3つまでと決めて。そうすると母も私も楽なのだ。

でも母はもっと自由に、もっと自分で考えたいかもしれない。選択肢以外の答えもあるかもしれない。私は考える能力を奪っているのかもしれない。

「やってあげる」で可能性を奪ってしまうのは虐待かもしれない。
そんなことを考えて、今夜は母主体で夕飯を作ってもらった。できる限り母が自分で考え、決めて、自分でやってもらう料理。

コンロは高いので車椅子だとフライパンの中身がほとんど見えません。

まずは献立づくりから。
「うーん。白いご飯と、お味噌汁と、あと何にしよう?」
母はわくわくした表情で言った。
「お肉の焼いたのがいいな!」
冷凍庫には鶏肉と豚肉があります。
「じゃあ豚肉で!」
私は豚肉をとりだして解凍した。
次は?
「じゃあ焼こう」
・・・えっと、お肉に塩胡椒と片栗粉まぶしてもらっていいですか・・・?
「あー忘れてたー」

時々は私のリクエストを挟みながら、母はがんばって肉野菜炒めを作ってくれた。味付けは
「焼き肉のタレで!」
味噌汁は、だしの素と味噌と、冷凍しておいた具を選んで入れてもらった。お米はひっくり返しそうだったので私が研がせていただいた。

火加減をみて。
味見をして。
もう一度味見をして。
「おいしー!」
・・・何回も味見をして。
最後の盛り付けもやってもらった。

普段、母は野菜を切るか盛り付けを一部手伝うくらいで、最初から最後まで関わることはあまりない。だから今日はとても嬉しかったようだ。帰宅したオヤジに
「私がつくったのよ!」
と満面の笑みで自慢していた。
「残したら怒るからね!」
母の味は黄金の味でおいしゅうございました。

自分で考えて自分で決めて、母は幸せそうだったけど。
今日は私が暇だからできたのである。
時間も手間もかかるから、こんなこと毎日はやっとられん!

そういう意味で、被介護者の幸せと介護者の幸せはイコールではない。
どちらか一方だけを優先させるわけにはいかない。
お互いに妥協し、歩み寄り、すり合わせ、幸せの中間地点を狙っていこう。
まずは選択肢を3つではなく4つ5つと増やすことから始めようかな。

本日の猫写真。

サンジもたまにトイレを失敗します。

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