車で大阪へ行きました。母を連れて行きました。
私のような田舎者にとって、都会の道というのは本当に脅威です。環状線という車線変更地獄からようやく抜けだして難波でおりたはいいものの、車を停める所がありません。目的地は病院なのですが駐車場は満車、コインパーキングはいっぱいあるんですが狭すぎて、車椅子を下ろすのはちょっと難しい。
どうすれば良いかわからなくて、駅前のタクシー運転手さんに相談したら
「こっちこっち、ここで下ろしたらいいで!」
と案内してくれ、車椅子を下ろすのを手伝ってくれ、それどころか
「お母さんはワシが連れていったるから、あんたは駐車場を探してといで!」
と、母の車椅子を押して安全なところまで連れていってくださいました。親切で感動した。
JR難波駅のタクシー運転手さん、ありがとう!
本日の猫写真。
(ビニール袋に入ろうか考えてるサンジ)
さて。本題。
「血は水よりも濃い」。
「遠くの親戚より近くの他人」。
どちらが本当なのだろう。
今日はつくづく「家族」と「友達」の差を思い知った。
友達との付き合い方はその人次第だ。ウマがあえばどんな人間でも友達になることができる。少々癖があろうが欠点あがろうが、その人の真心を知っていれば一生友達でいられる気がする。だからこそ友達は大切だし、良いものだって思う。その一方、友達と揉めた場合、縁を切ることも簡単だ。スマホのアドレス帳から電話番号を消せば済む。
だが、家族は違う。家族は選べない。否も応もなく、ただ血が繋がっているというだけで一生家族を続けなければならない。たしかに家族間にも深い絆は存在するが、相手によってはそれは重たい鎖でしかない。縁を切りたくても、兄弟の縁を切る方法は法律上存在しない。
「困ったときに助けてくれるのが本当の友達だ」
という言葉がある。そんな義務もないのに自ら進んで手をさしのべてくれるのが友達の価値。言い換えるなら、友達というのは、義務がないかわりに責任もないわけだ。介護とかそういうの。それでも助けてくれるなら本当の友人だろう。
他方、
「本当に困ったときに助けざるを得ないのが家族だ」
と私は思う。家族には、いくつになっても扶養義務というものが定められていて、嫌々でも手をさしのべざるを得ない(各所から電話かかってくる)。没交渉だろうがなんだろうが血がつながっているというだけで義務と責任が生じてしまう。
あ、私は両親や妹や従妹叔母さんなどなどに対しては是非とも手を差し伸べたいわけですが。
「どこにでもややこしい親戚ってのは一人はいるもんだね!」
ってお話です。
ああ、うざいーーー!
気分転換に猫写真もういっちょ!
(入ろうかどうしようか考えてる間に、シシィにビニール袋を奪われたサンジ)
コメント
慣れないルートの路線変更ほど、嫌なものはありませんよね。同感です。
ご無事でお帰り、何よりです。
だださんのヴァーチャル知り合い(と言ってもいいですか・笑)として、
神の配慮かと思えるその運転手さんのご親切に、私も深く感謝します。
さて、同じく本題へ(笑)
身内、友人との関係は、私の場合、年月とともに大きく変化しました。
こちらが心を尽くせば、どんな人との関係も好転すると本気で
思っていた日々がありましたが、世の中そうは問屋が卸してくれない
と痛感しまして。
歳とともに、私の気遣いエネルギーはどんどん減退しちゃいました。
悲しいかな、あーめんどくさい、が先に立つようになって。
老人がワガママになると言われる原因には、こういう衰えもたぶん
含まれるのだろうと思います。
大阪のタクシードライバーさんたちはみんなほんとに親切でした!
お仕事の邪魔だったでしょうに、ありがたかったです。
気遣いエネルギー(笑)減退しますよね…。
気遣ってもそれに気づいてもらえない、報われないことがいかに多いか…。
私ももう面倒くさくって。
人間関係を整理できるかできないか、というのがまた友人と家族の違いなのですが。