若年認知症のAさん。
 私の勤めるデイの利用者さんの中では一番若いけど、一番症状が重いAさん。
病気のせいでだんだん、できないことが増えてきた。
 家族のことを忘れ。
 自分のことを忘れ。
 お箸の持ち方やトイレの使い方を忘れ。
 言葉も忘れてしまって、ほとんどしゃべらなくなった。
 お風呂で「一緒に歌を歌いましょう」と声をかけたときに
 「それがいいです」
 とおっしゃったのが、今日聞くことのできた唯一の言葉。
もちろん文字の読み書きもとっくに忘れている。
 それでも一日の最後には、他の皆さんといっしょに日記をつけてもらうことにしている。
 まだ体が覚えているのか、なんとか鉛筆を持ち、ノートに向かう。
 文字が思い出せないため、もどかしげに鉛筆を押し付けて描くのは、ぐるぐる巻のような、ひっかいたような、のたくったような線ばかりだ。
文字とも呼べない線が波打つ中。
 1か所だけ、ちゃんとした平仮名があった。
 その言葉は、読めない黒い線の中から燦然と浮かび上がって見えた。
たった一言。
 『たのしかった』
 と。
「これ見てください!」
 私は先輩と上司のところにノートを持って行った。
 「これAさん!?」
 「すごい!」
 2人ともびっくり仰天して喜んだ。
 「まだ書けるんだねえ」
 「上手だねえ」
その「たのしかった」は、まわりの人に言われて書いただけ、らしいんだけど。
 手の平から砂がこぼれ落ちるようなAさんの中に、少しでも「たのしかった」という感想が残ってくれていたら嬉しいな、と私たちは思った。
そのあと上司は利用者さんたちに
 「みなさん長生きして、100才になっても120才になっても、ここに来てくださいね!」
 と言っていた。
 「Aさんもよ!アルト歌える人は貴重だからずーっと来てくれないと困るよ!」
 いつまでも末永くAさんと歌えますように!
今日もごはんをいっぱい食べたサンジ。この元気も、いつまでも末永く続きますようにー!



