コンサートの案内が届いた。4年前まで母が所属していた、音楽家グループのコンサート。楽しみだねとチラシを母に見せたら、母は慌てふためいた。
「大変! ぜんぜん練習してないわ。私は何を弾くんだっけ?」
母がこのグループでバイオリンを弾いていたのは4年前、脳出血で倒れる前までのことだ。コンサート前に倒れたため、病床にあっても
「練習しなくちゃ」
「もうじきコンサートなの」
と言いつづけていたっけ。高次脳機能障害のせいで母はたくさんの妄想を見たが、中でも「バイオリンを弾けない」ということはどうしても理解できないようで、私はその対応に苦労したものだ。
あれから4年。母は私と2人でバイオリンを弾くようになり、子供中心のユース・オーケストラではコンサートに参加できるまでになった。そのせいもあってか、音楽家グループのコンサートにも出演するものと、勝手に思い込んでいたらしい。
実をいうと、私はグループの方に、2人バイオリンで仲間に入れてもらえないかと打診したことがあった。けれどうまくいかなかった。グループの方も忙しくてバイオリン用に編曲する時間がなく、なによりも平日の昼間に行われる練習に私が参加できないせいだった。
そのことは母に説明していた。ムジカのコンサートには出られないんだよと。しかし母には理解できなかった。いや、受け入れられないのだろう。こんなにも頭がシャッキリしたというのに「バイオリンを弾けない」という一点だけは、どうしても。
「コンサートで何を弾くのか、グループのメンバーに電話をして相談する」
と言い張る母に、私はもう一度
「弾けないんだよ」
と言うしかなかった。
母は黙った。
口だけは達者な母が黙り込むことなんて、まずないことだ。あらためてショックを受けていたのだと思う。心の中で泣いていたのだと思う。
そのあとも、母はずっと
「なんでコンサートに出られないの? 2人バイオリンが駄目なら私ひとりで弾くから。あんたに仕事があっても、私ひとりで練習に行けばいいじゃないの」
と言い続けた。私はいたたまれなくて、話題を変えようと必死になった。
ここまでが昨夜の話。
今朝、起きたとき、
「この子はどうしたらいいの?」
母は左手をさすりながら尋ねてきた。
・・・この子?
「U子だよ。この子も着替えさせてあげなくっちゃ」
エイリアンハンドだ。
『左手のU子さん』だ!
母は麻痺した左手を末娘(U子)だと思い込む妄想を見ているのだ。高次脳機能障害が見せる妄想の一つで、かつては左手にご飯を食べさせたり、話しかけたり、細々と世話を焼いていたっけ。でももうすっかり治ったと思っていた。2年近く出ていなかったのに・・・。
きっと昨夜の話が影響しているのだと思った。コンサートに出られないショック、バイオリンを弾けないという現実が受け入れられないショックで、高次脳機能障害が後退してしまったのだろう。私は「子供たちと一緒にコンサートに出られたら満足するだろう」と思っていたのだが、母にとって音楽家グループの存在は、私の想像以上に大きかったのだ。
今日は話をそらさずに、2人バイオリンの練習をすることにした。マルティーニのガボット。ザイツの協奏曲。月末には母の旧友たちが楽器を持って遊びにきてくれる。そのときみんなで合奏をしようね、と。
何十年かぶりに弾く曲だったが、私も母もよく覚えていたからなんとか弾けた。久しぶりの2人バイオリンは楽しかった。そうこうするうちにエイリアンハンドは治まってくれた。母は左手のU子のことを忘れてくれた。・・・ただ、口には出せない悲しみだけがいつまでも残っていた。
コメント
口八丁と言いますが、認知(見当識)障害のある人に幾ら「現実」を説いても事態が悪化するだけならば、その場限りの「優しい嘘」も必要です。
介護に知識の無い人から「嘘は良くない」「きちんと話せば分かってくれる」などと言う、半ば願望、希望的観測でアドバイスされたってねえ。
それが出来ればー苦労はないー。
その時は納得したように見えても、夜中に昼夜逆転で行かねば!と大騒ぎするのが関の山です。
厳しい現実を受容することは健常者だろうと人格者であろうと難しいものです。
人の道を説いた宗教家や治療の権威であったはずの医療者がいざ自分が当事者になった途端、どれだけ狼狽え、恐慌に陥り、醜態を晒したことか。
高齢者であったり、長く患って居る人にとって、ただ「諦める」「断念する」だけの人生がどれだけ辛いものかは想像すらできません。
寄り添う者は辛く切なく悲しいですが、今回のだださんの判断は正しい者であったと思います。
>介護に知識の無い人から「嘘は良くない」「きちんと話せば分かってくれる」などと言う、半ば願望、希望的観測でアドバイスされたってねえ。
あるある!「じゃあオマエやってみろよ」っていう助言(笑)
優しいウソは、とても大切ですね。
「諦めることで得るものもある」
と今週の『直虎』が言ってました。
ただ、私ウソつくのがすごく下手なんですよ…すぐバレちゃうんです。
以前のぼやーっとした母なら誤魔化しもきいたのですが、今の母はだいたい感づいてしまいます。
一部を除いては、かなりしっかりしているもので。
(ちなみに旧友が楽器持って遊びにきてくださる話は本当です)
老い先短いとはまだちょっと言えない70才、なんとかトラウマを克服し、納得してくれる方法を見つけようと思います。