きょうだい児として

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近頃「きょうだい児」という言葉をよく聞く。今朝のNHKでもチラッと見かけたし、ドラマ『グッド・ドクター』にも登場した。

きょうだい児とは、病気や障害をもつ子供の、兄弟姉妹のこと。きょうだい児は幼い頃から犠牲になり、我慢を強いられることがある。多くのきょうだい児は葛藤して苦しむ。私自身はのほほんと育ったけど、同じきょうだい児が苦しんでいるのを見るのはつらい。

障害児ときょうだい児を育てている親御さんに、どうしてもお願いしたいことがあります。どうしても。

「兄(姉)のお世話をするためにあなたを産んだ」
なんて言わないでください。
「それなら生まれてこなければ良かった」
って思います。
生きている意味がわからなくなります。
きょうだいは、誰かのきょうだいである前に、一人の人間です。
お願いだから、きょうだい児のことを付属物やお世話係ではなく、脆くて傷つきやすい、世界でたった一人の子供として見てください。

「お母さんが死んだら、兄弟のことをよろしくね」
これを言われると
「じゃあお母さんより早く死のう」
って思います。
でなければ、
「兄弟が先に死んでしまえばいいのに」
って思います。
それくらい負担が大きい言葉です。

「私が死んだらこの子のことを頼む」
・・・親がそうう言いたくなる気持ちも少しはわかります。
が、私は逆効果だと思うんです。

日本の法律では扶養義務が定められており、親の死後は否応なく(!)きょうだいが介護に関わることになるのです。子供自身もだんだんと「いつかは自分がやるしかないんだろう」と分かってきます。それだけでも荷が重いというのに、親からの
「お願いね」
なんてダメ押しはストレスでしかありません。
人って「やれ」といわれると嫌になるもの(私があまのじゃくなだけ?)。子供は親の命令に逆らうことが難しいぶん、反発も大きくなります。だから
「きょうだいの世話をしなさい」
という命令は、逆効果だと感じるのです。

「家族が助け合い、お世話をするのは当然」
という考え方があります。私もそれは自然なことだと思いますが、当然だとは思いません。自発的にするものであって、強制するのは違うと思うんです。
「私が死んだら兄弟のことはよろしくね」
というのは
「おまえが犠牲になれ」
ときょうだい児を十字架に縛りつけてしまう言葉です。勘弁してあげてほしいです。

親は好きで、と言うか全てを覚悟して子どもを産むのだろうけど親と私たちはちがう。私たちは知らないうちに障害と関係ある生活を送ることがもう始まっていた。

「障害者のきょうだいです。私たちは差別屋ですか?」(私の弟は障害者。早く消えてくれ)より。(きょうだい児によるブログ。強烈な文章ですがこれが現実です)

私たちは、きょうだいのために生まれてきたのではありません。
自分の人生を生き、自分の夢を叶えるために生まれてきたのです。

それ以上でもそれ以下でもありません。

ひがんばな

私は妹を施設に入れました。自分の人生を犠牲にしたくなかったからです。
でも、憎んでるわけじゃありません。
うちの妹は夜になるとゴジラみたいに叫ぶし私のことを奴隷みたいにこき使います。でも機嫌のいいときは元気よく歌うし、棒きれみたいな手を一生懸命に動かして私をマッサージしてくれる。笑ったらめっちゃ可愛いんです。妹と旅行をするのは普通に楽しいです。

たとえば恋人のように、まったく愛情がなければ完全に切り捨てられるのかもしれません。けれど、きょうだい児が葛藤するのは、切っても切れない血の鎖に縛られていて、愛情がある(もしくは、もっていた、もちたい、もたなくてはならないと思っている)からではないでしょうか。たとえ犠牲を強いられても、昔一緒に遊んだ思い出や楽しかった記憶がわずかでもあれば邪魔をして
「こんなふうに考えてはいけない」
と思い、きょうだいのことを憎みそうになる自分自身を憎んでしまう。必要なのは距離感・・・別々の人間として生きるための、適度な距離だと思います。

私と妹の適度な距離は車で40分ほどの距離です。…明日、会いに行きます。