母の梅酒

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台所のシンク下を片付けていたら、一番奥から、大きな瓶が出てきた。薄茶色の液体で満たされ、梅の実がごろごろと海底遺跡のように沈んでいる。古い梅酒だ。

この梅酒、5年以上前のものには違いない。いつ作ったかは不明だが、作った人だけは確実にわかる。母である。脳出血を起こす前、元気だった頃の母。両足で歩けて、左手が動いて、バイオリンが弾けて、バリバリ働いていた頃の母。スーパーマンと呼ばれていた頃の母。

現在の母は、もちろん梅酒を作ったことも覚えていない。なんだか別の人間のような気さえしてくる。梅酒を作った母と、今車椅子にすわっている母が、同一人物だと思えないのだ。旅をしていた頃の私と、介護やってる今の私とが、別の人間みたいな気がするのと同じように。

あの頃の母と私は、どこへ行ってしまったんだろうな。

なんだかせつないような、貴重な遺品を見つけたような、おかしな気分になってしまった。

・・・これ、飲めるかな。
いつのものだかわからない、茶色くなった梅酒。
だがオヤジが試飲をして
「飲める飲める、大丈夫!」
太鼓判を押した。

よし、私も味見しよう。
グラスを出して液体をそそぐ。梅酒なんて飲んだことないから、てきとうに氷と少しの水で割ってみた。

うーん、まずい!

チョロリとなめることしかできなかった。味はわからないが、臭いがどうしてもダメだった。それを見たオヤジが
「俺がぜんぶ飲む!」
とグラスを奪っていった。きっと、母が作ってくれた梅酒を大事にしたいんだろう。
そして梅酒をつくった母本人は
「私は梅酒キライやねん」
といって、やっぱりなめることしかできずにグラスを差し出し、笑っていた。
私たちの横では、猫たちが重なり合って眠っていた。

・・・いつか。
何年先か、何十年先か。
未来の私は、こういう、なんてことのない日々を思い出して、懐かしく思うのだろう。ささやかな幸せの思い出は梅酒のようにしっかり蓋をして、シンク下の闇に隠しておこう。いつかとりだして飲めるように。