私が最後の長旅をしてから10年が経つ。アフリカやインドや南米を旅していた頃から、もう10年も経ってしまった。
にもかかわらず、今でもまだフラッシュバックのようなものを体験する。唐突に目の前に現れるのだ。
ブルガリアへ向かおうとしていた列車の座席だとか。
ヨルダンの狭苦しい安宿の様子とか。
イグアスの滝に飛んでいたチョウの群れだとか。
旅の空気がほんの一瞬、鮮やかに蘇ってハッとする。まるで私の一部が今でもまだ旅を続けているかのように。どんなに無理だとわかっていてもあきらめきれないんだろう。
母も同じなのだと思う。ただ、私よりもその頻度はずっと高く、ずっと根深い。
だからしょっちゅう、こんなことを言う。
「私、一人でバイオリン弾けるもん」
「だんだん左手が動くようになってきた」
「簡単な曲なら弾けるんだよ」
現実には一人でバイオリンを弾くなんてとても不可能な話だ。母の片麻痺はかなりキツく、肩も肘も手首も、指の1本でさえも、1ミリだって動かない。母だって頭ではわかっているのだ。
「左手で茶碗を持てる」
とは言わない。
なのにバイオリンを弾けなくなったことだけはどうしても受け入れられなくて。今でもまだ昔のように弾けるかのような、鮮やかな妄想を見てしまうのだ。
そんなときどう対応すればいいだろう?
優しい人はよく、こんなふうに言ってくださる。
「いつかきっと弾けるようになるよ」
「あきらめないで、希望を持ちつづけていれば、いつかきっと」
いつか?
いつかきっと?
どうなるというのだ?
いつかって、いつのことだ?
10年後? 500年後?
もちろん希望をもつことは大切だ。「夢」や「希望」は美しい。小学生が書き初めに書くくらい美しい言葉だ。でも夢は掴みどころのない夢であって現実じゃない。
現実は、
「やっぱり動かない」
と落ち込むだけ。希望をもち、今日こそ動くとバイオリンを手にしては、
「動かないなあ、おかしいなあ、なんで動かないんだろう」
と凹み、泣きそうになるのだ。
優しい人は、明るい気持ちになってもらいたくて、
「いつかきっと」
と言うのだろうが、そのたびに、何百回、何千回、何万回も母が泣きそうになっていることを知らない。前向きな母がこの時ばかりはどんは顔をするのか知らない。
失ったものがどんなに大きいのか。どんなにつらいのか。せつないのか。私には少しだけわかるから。希望なんて無いほうがマシなんじゃないかと思う。
少しでも拠り所があればいいが、奇跡を待つだけの夢や希望はただの妄想だ。宝くじ当たれと願うようなものだ。
それでは前に進めない。
「いつか左手が動いて一人で弾けるようになる」
よりも
「右手だけでバイオリンを弾ける装置を作る」
方法を考えたい。
あともちろん、2人バイオリンを楽しく弾こうって、私もだんだん上手くなるから演奏会に向けてがんばろうって、言ってあげたい。
叶いもしない夢なんか。希望なんか。
私にはいらない。
現実を、叶えるのだ。