今日は三田ユース・オーケストラの最後のコンサートでした。
私たちも2人バイオリンで弾いてきました。
「2人バイオリン」は、片麻痺のある母と私が2人で一挺のバイオリンを弾く、特殊な演奏方法です。詳しくはこちら。
母とユース・オーケストラと2人バイオリン
三田ユース・オーケストラは、子供や学生さん、若い人たち中心のグループだ。うちの母とS先生の2人の指導により毎年コンサートをひらいてきた。もう24年つづいている。バイオリン教師である母にとってこの活動はライフワークといっていいだろう。ユースの生徒が音楽の道に進んだり、大人になって指導を手伝ってくれるようになったり、ソロを任せられるようになったり、また子供を連れてきたりすると、母はいつも得意そうに、そして嬉しそうに話してくれた。
だが2013年。母は脳出血に倒れ、バイオリンを弾く左手を失ってしまう。その年のコンサートはまだ入院中だったにもかかわらず
「これだけは私の仕事だから!」
と無理をいうので、外出許可をもらってリハーサルを見に行った。
2014年にはコンサートを客席で見た。
2015年には客席でなく、奏者として参加しようと思い立った。2人バイオリンで弾いてみようと。でも、ダメだった。高次脳機能障害が強すぎた。
私たちの2人バイオリンが初めてコンサートに参加したのは2016年。ウィーン旅行から帰ったあと、私たちは猛特訓をして初めてコンサートに参加した。そのときはバイオリンを固定する台を作り、なかなか苦労して弾いたものだ。
2017年にはヴィヴァルディを。
2018年にはバッハを。
だんだん難しい曲に挑戦していった。
それにつれて母の高次脳もだんだんと回復し、私たちは少しずつ腕をあげていった。
そして2019年。
今年もユース・オーケストラはコンサートを開いた。
24年目にして、これが最後のコンサートになる。
ぶっつけ本番!
「今年のコンサートで終わりだから、頑張らなくっちゃあ!」
母も私も張り切っていた。
曲目は『弦楽セレナーデ』。
美しいが、今までで一番難しい曲だ。
そのため去年の秋から練習を始めていた。
かなり頑張っていたのだ。
なのに! いろいろ重なって。アクシデントがあって。
ここ一月はバイオリンどころではなくなってしまった。
全体練習にはほとんど参加できなかった。
それどころか、前日・当日のリハーサルにも参加できなかった。
だってね、よりによって今日、コンサート当日に、なんとオヤジが退院するのである。「もうちょっとゆっくりしていてもいいんじゃない?」と言ってみたけどそれは病院が決めることなのでダメだった。
朝から往復2時間かけてオヤジを迎えにいき(ピンピンしてました)、昼ごはんを食べさせて。
それから大急ぎで母を着替えさせて
「さあ、コンサートいくぞ!」
すぐに舞台へ。
練習もリハーサルも行けなかったので、3楽章は一度も合わせたことがなかったし、4楽章も指揮者の先生がどれくらいの速さにするのか知らなかった。失礼千万なぶっつけ本番ある。
でも仕方がない。やるしかない。
私たちには秘策がある。
「3楽章はミュート(弱音器)つけよう!」
母は高次脳のせいでまわりの空気をよむのが苦手である。音に強弱をつけるのも苦手である。3楽章はごくごく静かな曲なのに、1人だけフォルテで弾いたら大変なことになる。みんなに迷惑をかけないよう小さい音で弾くのだ。音色は変わってしまうが悪目立ちするよりはマシだろう。
どきどきの本番
袖からのぞくと、これから出ていく舞台は白くきらきらと輝いてみえた。客席は薄闇に沈んでいる。私たちはファーストバイオリンのみんなと並んで一緒に出番を待った。
開演のブザー。休憩時間の長閑なざわめきが徐々に静まり、アナウンスが入る。曲目紹介。チャイコフスキー。弦楽セレナーデ。
舞台スタッフにうながされ、ぞろぞろと舞台へ出ていく。バイオリンが20人くらい。ヴィオラやチェロやコントラバスが順番に並んだ。私たちは一番うしろの端っこだ。
緊張はなかった。練習もリハーサルもしてないのだからうまく弾けるわけがない。ただ、楽しみだった。だって、みんなが弾くの聴いたことないんだから。どんな演奏になるのかワクワクしていた。
指揮者が手をあげて構える。
空気がぴんと張り詰める。
まるで陸上競技のスタートのように、合図の白旗のように、指揮棒がさっと振り下ろされる。
弦楽セレナーデ第1楽章。CMでもおなじみの超有名曲だ。去年の秋からずっと、入院した母の枕元にまで楽譜をもちこんで、うんざりするほど練習した。なのに母は楽譜を見失った。どこを弾いているのかわからなくなり、まったく違う弦を弾こうとする。それが何度もあってハラハラしたが、大きな破綻はなかったと思う。
第2楽章は、私たちはお休みだ。難しすぎて手に負えないから。
第3楽章はミュートをつけて弾いた。小さな音で控えめに弾いた。これも失敗はなかったと思う。母がだんだんノってきているのを感じた。
そして問題の第4楽章。
冒頭部分はのびやかに流れていったが、すぐに曲調がかわり・・・走り出した。
ものすごい勢いで走りだした!
「えっ!?」
心の中で声をあげるくらい速かった。
「この曲こんなに速かったの?」
例えていうなら、ゴーカートかなって思ってた乗り物がジェットコースターだった感じ。
だが戸惑っている暇などない。そんな余裕はない。さらにスピードをあげていくジェットコースターに必死で食らいついていかなくてはならない!
母はといえば、先ほどまでの消極的な弾き方がウソのようにガンガン弾きまくっている。昔の記憶が蘇ってきたのだろう。フォルテもピアノも弾き分けて、迷子になることもなく周りと同じスピードでぶっ飛ばしていく。
速い! 速い!
でも私の指がついていかない!
振り落とされるー!
無我夢中だった。
ジェットコースターに乗ってる時ってなぜか笑ってしまうんだけど、このときも私は笑っていた。難しすぎて、必死すぎて、楽しくて、ちょっと笑いをこらえながら弾いていた。
『弦楽セレナーデ』は美しかった。
ハーモニーがキラキラ輝き、バイオリンとヴィオラが疾走し、チェロとコントラバスが弾んでいく。若者たちがうみだす音色は、今までのコンサートでは聞いたことがないほど綺麗に、玉をならべたように綺麗にそろって響いた。なんてすごい演奏だろう。
「だってこの曲で最後だから。みんなで弾ける最後の曲だから。」
あとで女の子が言っていた。
泣きそうになりながら弾いていたそうだ。
あれは、みんなの思いが一つになった見事な疾走だったのだ。
残念なことに私ひとりが美しい流れについていけてなかった…。変な音をいっぱい出して本当に申しわけなかった。それでも最後は全力疾走した。指が痛くなるほど速かったが、ぎりぎり外れずに駆け抜け、最後の和音へとたどりついた。
最後の音が、若者たちの魂から放たれた熱気が、客席に消えていった。
「ブラボー!」
拍手が湧き上がった。
コンサートは終わった。
夏が終わった。
母が元気で指導していたのは7年前だ。ここ数年は、正直、邪魔しかしていない。(なにより下手くそな私が一番邪魔だよ!)それでも往時の母を知る生徒たちは、最後まで先生、先生、と慕ってくれ、花束をくれ、記念写真では指揮者といっしょに真ん中に並ばせてくれた。母はこのうえなく幸せそうだった。
母にとって、温かく大事な居場所が一つなくなることは寂しいが、母とS先生が教えてきた音楽、みんなで弾くバイオリンの楽しさは、子供たちの人生に根を下ろし、きっとこれからも息づいていくことだろうと思う。
コメント
コンサートは終わった。
夏が終わった。
さすがの伴奏。
情動をつかみ形に持っていくプロの力量。
音楽はいいですね。
更に生は全然違って。
弦楽セレナーデ、動画で聞いてとても素敵だったのと
先週職場であったピアノコンサートにたまたま居合わせて
思いがけず涙出るようなすばらしさだったのも重なり
おすそ分けのお礼にとコメントしました。
よい夜を。
ありがとうございます。
>音楽はいいですね。
>更に生は全然違って。
そのとおりですね。
聴くのもいいですが、弾くのも楽しいです。
今回は、あまりの美しさに弾きながら感動したくらいです。
もっと余韻に浸っていたかったなあ・・・。
お疲れ様でした。
お父様の退院までこなされたとは
私なら後2日ぐらい無理矢理ニュースさせておくかも?(笑)
音楽業界はプロのオーケストラさんでも、大阪は補助が切られ、自分達でチケット売れまで言われ、雨漏りのする場所での練習になっていると伺いました。
芸術を潰していくような政治でいいのだろうか?音楽家だけの老人ホームがあると言うヨーロッパを羨ましくも思い、オーケストラは何枚のチケットが売れたって儲かる物ではなく、ましてアマチュアだと資金が個人負担になって今まで続けられたのも大変な作業だったと思います。
お母様かなりご友人と無理されたのでしょうね
子ども達がキラキラの眼差しでオーケストラ演奏が出来る、そういう世の中であって欲しいですね
だださんが一番お疲れのように思います。休めたらいいのですが
退院ってやることは支払いだけなんですけどね、タイミングが悪くて面倒でした。
学生時代、歴史の授業で
「石器時代の狩人たちが、獲物が十分あるときに、洞窟に絵を描いたり歌を歌ったりした。それが芸術の始まり」
と教わりました。
文化や芸術には余裕が必要なのですね。
金銭面もそうですが、精神的な余裕が、現代日本には足りないのでしょう。
母たちがユース・オーケストラを始めた頃は、まだバブルの余韻があったのですが。
少子化はいろんなところに影響がでてきますね・・・。
私は明日はお休みです!!
休める、はず、多分(笑)。
ニュース?入院の間違いです。訂正出来なくてすみません、スマホは誤変換しやすいです。