タイ・たった1日だけの旅

たった1日だけの旅(7)バンコクの夜

ハンバーガーの夕食のあと、宿に戻った。
インド系の安ホテルだ。
スタッフも客も全員インド人。
レストランの食事もぜんぶカレー。
全館デリーみたいな香りが漂っている。ここバンコクなのに。
1階のカフェでコーヒーをのみながらネットをした。
家族とLINEでやりとりをしたり、メールやブログを書いたり。
1時間ほどくつろいでから部屋に戻った。
シャワーと洗濯をすませたとき、携帯の着信に気づいた。
叔母からだった。
かけなおすと
 「お母さんが倒れて救急車ではこばれた」
と報された。
 「脳出血でかなり危ないの」
私は思わず
 「また!?」
と叫んだ。
不謹慎だけど、2年前にも同じようなことがあったから、またそんなことになるなんて、驚いたのだ。
だけど脳出血。
2年前より深刻だ。
事態は急を要している。
 「すぐ帰る!」
と電話を切った。
でも、私、どうしよう。
どうしよう。
どうしたらいいのだろう。
・・・航空券。
日本に帰る航空券を買わなくちゃいけない!
パスポートと財布を握りしめて部屋をとびだした。
階段をかけおり、鍵をフロントに投げ捨てた。
インド人のお客さんとぶつかりながらホテルのドアを開け、転がりでた。
夜のバンコクに。
 「うーん」
ハタと立ち止まる。
航空券ってどこで買えるっけ?
旅行会社はどこにある?
地図とかなんにも持ってない。
それにこの時間ならもう閉まってるかもしれない。
安宿街として有名なカオサンに宿泊していたのならすぐに旅行会社が見つかったと思う。
だけど私の宿は実に中途半端な位置にあった。
安宿街でも繁華街でもない。
昼にはローカルな市がたつものの、日が沈むと人通りもぜんぜんなくて真っ暗けだ。
こんな暗い夜道、歩けるわけがない。
3歩もいかずにホテルに引き返した。
ドアを開けるとすぐ、フロントのおじさんが立ち上がってこちらに来た。
 「どうしたんだ?」
と声をかけてくれた。
1時間前までふつうにコーヒーを飲んでた外国人が、急にルームキーを放り出して飛び出したかと思えば3歩あるいて帰ってきて、真っ青な顔で立ちすくんでいるのだから、そりゃあびっくりしただろう。
私はむちゃくちゃイングリッシュでまくしたてた。
 「私は日本に帰らなくてはならない。
 いますぐ帰らなくてはならない!
 旅行会社がどこにあるか教えてもらえますか?」
英語なんかほとんど出てこなかった。
『いますぐ』という熟語がでてこなくて、
アズスーン、なんとか!
とかいってた記憶がある。
おじさんはフロントのカウンターからでてきて、私の目をのぞきこみ、肩に手をおいた。
 「まず、落ち着け」
彼は私に座るよう促した。
 「何があった?」
私が腰かけたのは、さっきまでコーヒーを飲んでいたカフェの椅子だった。
あのときはなんにもしらなくて、母とLINEのメッセージを交わしていたのに。
すべては一変してしまった。
私はインド人のおじさんに、むちゃくちゃイングリッシュで伝えた。
全力で伝えた。
 「日本から電話がありました。
  母が病気で死にそうなんです。
  すぐに帰らなくてはなりません。
  旅行会社がどこにあるか教えてもらえませんか?」
あいかわらず動転していて英語なんかちっとも思い出せなかったけど。
なにしろ必死だったから伝わった。
おじさんは相変わらず私の目をみてこういった。
 「よし、よし、わかった。
  俺がなんとかするから。
  旅行会社に電話して航空券を手配しよう。
  どこの空港だ? 大阪か。
  バンコク発大阪行きでいいか?
  手配できたら呼ぶから、とりあえず君は部屋に帰っていなさい」
いわれるがままに階段をあがった。
部屋に帰っても、頭は混乱したままだった。
いろんなことをやりかけては、こんなことしている場合じゃないと投げ出し、またうろうろした。
あちこちに電話をかけ、父や妹と話し、そしてまた檻にとじこめられたキツネみたいにぐるぐる同じところを歩きまわった。
やがておじさんがeチケットを持ってきてくれた。
 「今夜の便は間に合わないから明日の朝いちばんのタイ航空でいいか。
  できるだけ値切ったけどな、高くて申し訳ない」
値段なんてどうでもよかった。
ネットで安いチケットを探してる場合じゃない。
 「5時にタクシーを呼んであるから。
  4時にはモーニングコールをしてあげよう。
  君は何も心配はいらないから。
  まだあと4時間あるから、いいかい、ちょっとでも眠るんだよ」
私は何度もお礼をいっておじさんと別れた。
いいおじさんだった。
あのおじさんがいなければ、本当にどうしていいかわからないところだった。
解いたばかりの荷物をパッキングしなおし、布団に入ったころ、ちょうど日付がかわった。
おじさんは眠りなさいといったけど、やっぱり眠れるわけがない。
さまざまな思いに囚われながらバンコクでたった一度の夜を過ごした。
長い、長い、長い夜だった。
ホテル

たった1日だけの旅(7)バンコクの夜” に4件のコメントがあります

  1. SECRET: 0
    PASS: 74be16979710d4c4e7c6647856088456
    とてもいいおじさんに出会えることができて良かったですね。
    たった1日だけの旅行だったですけどやさしいおじさんに出合えた事がいい思い出になると思います。

  2. SECRET: 0
    PASS: 74be16979710d4c4e7c6647856088456
    そうだったんですか。
    手にとるようにたださんの当時の状況がよく理解できます。
    言葉が十二分通じなくても慌て困っているのは誰でもわかるのですネ。
    ホテルのオーナーに乾杯!

  3. SECRET: 0
    PASS: 74be16979710d4c4e7c6647856088456
    困っている人がいたら、助ける。
    言葉はいまいち通じていなくても
    「どうしよう!」「任せとけ!」っていう、人の暖かさは
    全世界共通なのだと改めて心にひびきました。

  4. SECRET: 0
    PASS: 74be16979710d4c4e7c6647856088456
    >yurikoさん
    いいおじさんでした。
    でもマージンはしっかり取られてますけど(笑)。
    >にしかわさん
    イザというときは言葉がわからなくてもだいたい通じます。
    もし彼が英語を話さない人でもきっと通じたと思います。
    >みわさん
    インド人だからモロに目を見て「とりあえず座れ、何があった?」と問いかけられたときのことは忘れられません。
    彼がいなかったら本当に大変なところでした。

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