「ソウェト」は、ヨハネスブルグにある黒人居住区の名前だ。
アパルトヘイトの象徴だ。
現在ではショッピングセンターなどもでき、実業家なども住んでいるが
多くの住人は貧しさから抜け出せないでいるという。
(ソウェトの景色)
1976年。
アパルトヘイト政策の一環として、学校の授業が「白人の言葉」で行われることになった。
ソウェトの黒人学生たちがこれに反発。
デモを起した。
警官達は彼らに発砲。
デモは暴動となり、大勢の死傷者がでた。(ソウェト蜂起(Wiki)
・・・短くまとめたらこんな感じ。
だけど、ヘクター・ピーターソン博物館で「ソウェト蜂起」を初めて知った衝撃は、
こんな短い文章に入りきるものでは、とてもなかった。
デモの中心は中学生だった。
十代前半の子供が立ちあがったのだ。
事件で最初に殺されたヘクター・ピーターソンは、たったの13歳だった。
博物館では、たくさんの写真パネルや映像が彼らの幼い顔を伝えていた。
「TO HELL WITH AFRICANSS」と掲げて行進する中学生たち。
弟や妹の手をひいている子もいた。
赤ちゃんに近いような小学生が催涙弾で血をながしている写真もあった。
現代の日本なら、
登校拒否したり進路に悩んだり
中2病にかかってバカなことやってるような年齢の子供が
アパルトヘイトと闘っていた。
そして殺されていった。
何人も。
何人も。
何人も。
ぐったりしたヘクターを抱きかかえて走る少年。
ヘクターの姉が泣き叫んでいる。
この1枚の写真が、ソウェト蜂起と彼らの悲しみを世界に伝えた。
(英語のサイトに写真があります。大きいのは「らばQ」にもありました)
なんでこんなことをするのだろう。
なんでこんなことができるんだろう。
子供たちは、ただ、自分達の言葉を使いたかっただけなのに。
あたりまえのことを求めていただけなのに。
(現代のソウェトを歩く母子)
重い気分で博物館を出ようとすると・・・お土産屋があった。
ヘクター・ピーターソンの血まみれ写真が、マグネットやキーホルダーになってた。
私たちは彼を忘れない。
子供達の死を無駄にはしない。
そういう意思表示なのだと思うけど・・・キーホルダーはちょっと意外。
たまには真面目に書いてみました。
重くてごめんなさい。
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— 南アフリカ —
殺された子供たち…ヘクター・ピーターソン博物館
2011年11月14日
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以前、職場の仲間が南アのヨハネスブルグに行った感想で「気候も良く緑が多く整備された美しい街並みでした」と言っていましたが、それは極一部の景色ではと思います。
アパルト政策で人種差別と粛清、血を流す世の中であったのですネ。
それにしても30年間近く投獄され、大統領となり、弁護士にもなったマンデランさんに敬意を表します。
いつも多くの写真とわかりやすい立派な文書の地球の迷子に乾杯!
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>にしかわさん
ヨハネスは洗練された都会で、たしかに綺麗でした。
そのためギャップが強いです。
政治が変わっても人の心はそう簡単に変わるものではありません。
マンデラさんは南アフリカの英雄で、グッズもたくさん売られていました。